# 9 悩める人間

本日、政治家の靖国神社参拝の問題が取り上げられたり、戦没者慰霊式典のニュースなどが飛び交う。

ある方が、終戦後の知識人の有り様について報道をしていた。
彼によると、中立的なスタンスをとっていたジャーナリストたちが、1941年大東和戦争が勃発すると、古事記などを率先して読み始め、戦争に身も心も雪崩をうった。所が、終戦を境に彼らは旧日本軍や更には天皇の戦争責任などを狡猾にも述べ始めたそうで、その変わり様に怒りを露わにしていた。

私は戦争の実体験は無い。だが、戦後の焼け野原は知っている。
家族が疎開地の北海道から東京に移り住んだ。当初は御徒町での仮屋住まいであった。
上野駅地下には傷痍軍人やホームレスが溢れていた。
チンチン電車(都電)に飛び乗る乗客の下駄の甲高い音が今でも聞こえてくる。
数年後に板橋区に移り住んだ。周囲は草茫茫の野原であった。近くには軍事工場跡が点々としていた。廃墟と化したそこにはガスマスクなどが転がっていた。
私は学芸大学の小学校に入学していた。そこに天皇陛下が何らかの式典で
行幸された。古びた、地味な自動車に乗られていた。私は「どうしてあんな自動車なの」と聞いた。大人が「天皇陛下は目立ったのには乗れないのだよ」と言っていた。終戦の混乱期はそんな雰囲気だった。傷ついた多くの大人は戦争を思い出したくないのであった。

先ほど述べた、知識人が戦争反対、戦争責任などを掲げたのはそんな雰囲気では宜なるかなであろう。
だが、同一人物達が戦前には戦争にエールを送っていたとは、知らなかった。

この様な転向は非難されるべき。この様な事は人間としてあるまじき行為のように思う。彼らに真心はあるのであろうか?こんな事は、戦争だからこそ起こったのだろう?ナドナド色々と考えを巡らせる。

一方で、心の世界を覗き見ると、日常に起こる現象であると気づく。
同じ事柄で人は喜べるし、泣ける。戦争に関しても賛同も否定も出来るのだ。
我々の霊魂はしばしば、様々に揺れ動かされ、同じ事に喜びも悲しみも演じる。
現在のプーチンの戦争もロシア国民は肯定的に捉えていると言われているのだが、いつしか、完全否定に転向するかもしれない。
充実と空虚、泣いたり笑ったり所謂、盈虚伸縮は子供達に普通み見られるのであるが、大人も同じ感情に揺り動かされる様に見える。

この様な仮面虚飾は人間の一面である。
一方で、人間には良心というその様な感情より深層にあり、簡単には転向できないものが潜んでいる。
良心の呵責に苛まれるのも悩める人間なのだろう。

本日は終戦記念日。



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