クック船長とハワイ②1779年1月~2月ハワイ島
キャプテン・クックは、太平洋探検の第3回航海で、1778年1月にカウアイ島、2月にニイハウ島、1779年1月にハワイイ島へ上陸。2月4日にハワイ島を出帆するが、突風で破損したマストを修理するためハワイ島に戻ったところ、島民とトラブルになり、殺されてしまう。
1778年3月末~4月は北米西岸ヌートカで船の修理と交易を行い、5月~6月はアラスカ沿岸を航海し、ハドソン湾への水路がないことを確認。アリューシャン列島を経てベーリング海へ進み、8月には北極海へ入るが、氷山と霧に阻まれて8月29日に欧州への水路の発見を断念する。
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9月16日、アラスカ半島と北米大陸が結びついていることを確認できたので、部下たちを休息させ、糧食を備えることのできる越冬の地に退くべき時が来た。北方の港で越冬すれば、6~7カ月間活動を停止しなければならない。そうしないですむ容易に行ける場所は、サンドウィッチ諸島をおいてないだろう。
11月26日の夜明けに陸地(マウイ島)が南南東から西に広がるのを見た。正午、カヌーがやって来るので、船を止めると、沢山の人たちが船内に入ってきた。彼らは風下側の島々の住民と同じ民族であり、我々がすでにここに来たことがあるのを知っていた。我々は、釘や鉄片と交換に沢山のイカを手に入れた。
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11月30日、首長テルヤブー(カラニオプウ)のカヌーの来訪を受けた。彼は2~3頭の小さい豚を贈ってくれ、2~3時間滞在後、残留を望んだ6~8人を残して立ち去った。夕方、風上側に発見した現地人がオワイエ(ハワイ)と呼ぶ島に向かって船を進めると、現地人たちは同行を望まず、カヌーで立ち去った。
1778年12月~1779年1月ハワイ島
2日朝、オワイエ(ハワイ)の最も高い頂きが雪に覆われているのを見て驚いた。島を北→東→南→南西へ回りながら、2日、6日、7日、13日、20日、21日、23日、28日、31日、1月1~3日、8日、11日、13~16日はカヌーと取引するため、船を岸に近づけた。
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ボートを出して海岸沿いを調査したところ、良い停泊地があり、新鮮な水が近くにある湾(ケアラケクア)を発見したとの報告があり、船を修理し、水を積み込むことを決めた。17日11時、船を停泊させると、カヌーの大群に取り囲まれた。海岸は人に覆われ、何百人もが魚群のように船のまわりを泳いでいた。
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数多い訪問者の中にトウアーアーがいた。彼は儀式めかして自己紹介をし、小さい豚と2個のココヤシを贈ってくれ、1枚の赤い布を私の周りに巻いてくれた。船に持ち込んだ大きな牡豚と大量の果物、根菜も贈り物だった。午後、上陸すると、トウアーアーが私の手を取り、大きなモライ(ヘイアウ)に導いた。
クックの航海日誌は1月17日が最後。ハワイ島民との紛争で殺される2月14日までの28日間は日誌を記さなかった。その後の出来事についてレゾリューション号のジェームズ・キング第2海尉の日誌、クックの最期の場面に同行したモールズワース・フィリップス海兵隊士官の証言により紹介する。
上陸すると数人の男たちが迎えてくれたが、呪文を唱えながら、エロノという言葉を繰り返していた。石を積んだ塚の上に導かれた。周りに木の柵をめぐらせ、20個の頭蓋が掛けてあった。小屋の反対側には木を組んだ足場が設けられ、12体の像が半円形に並べられ、真ん中の小さい像に最大の敬意が表された。
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クックは足場の上に登らされ、赤い布を巻き付けられた。平伏して像に接吻することを神官から求められ、それに従った。それから一連の儀式が行われる間、2人の首長は呪文を唱え続けた。その後、杖を持った男たちがエロノという言葉を繰り返しながら、南へ歩いたが、この言葉を聞いた人々はみな平伏した。
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ハワイ島では雨季の始まりにマカヒキ祭りが行われ、豊穣神ロノが、カヒキから訪れると信じられた。ロノ神像が島を時計回りに行進して王のもとに帰ると、ロノは殺され、漁網による卜占後、白木のカヌーでカヒキへ返された。クックは島を時計回りにケアラケクア湾に到着したため、ロノ神として迎えられた。
民家に入っていくと、クックは木像の前に座らされ、布切れをまとわされた。若い豚を神官が扼殺し、火で毛を焼き取り、クックに捧げた。その間、多様な節と詠唱で問答形式の歌が歌われた。最後にココヤシの実がクックの足元に置かれると、一同は座ってカヴァ酒と豚を食した。
1月26日の午後、1隻の大カヌーが2隻のカヌーを従えて近づいてきた。黄と赤の鳥の羽毛で作ったマントと帽子を付けた大首長テリーオブーが家臣団と共に乗り、第2のカヌーには神官が4対の神像と共に乗り、第3のカヌーには豚と野菜を満載していた。首長や神官たちは厳粛な態度で歌を歌い続けていた。
大首長は船に上がることなく、岸に向かった。クックがそのあとを追って大テントの中に入ると、大首長は自分が身につけていたマントを彼の肩にかけ、羽毛の帽子を彼の頭にのせ、大変美しい5~6枚のマントを彼の足元に置いた。大首長の従者は、4頭の大きな豚と色々な食物を持ってきて、クックに捧げた。
船大工たちは船の舵の修理を終え、前部の欄干を作り直すための木材を切り出そうと内陸に入った。天文係たちはヘイアウの傍らのサツマイモ畑で天体観測と経緯度の測定を行った。数人が雪を頂いたマウナロア火山への登山を試みたが断念し、5日後に船に戻った。
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2月1日、隊員がヘイアウの神像を船の燃料として積み込む事件が起き、キングが返還。死亡した隊員の葬儀はハワイ式で行われヘイアウに埋葬された。2日、首長たちはクックがいつ出発するのかを知りたがった。マカヒキ祭りは終わりつつあった。クックは大首長と共に神官の家に行き、大量の贈り物を受け取る。
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夕方、レスリングの競技が行われた。クックは返礼として花火を打ち上げ、島民を驚かせた。2月3日、全員が船に引き上げ、4日早朝、2隻の船は出帆したが、6~7日に突風が吹き、レゾリューション号のマストが破損。クックは、気が進まなかったが、修理のためにケアラケクア湾に戻るほかはないと考えた。
11日の朝、両船は湾に投錨。マストを陸揚げし修理を始めたが、島民は歓迎に現れなかった。水汲みに出かけた隊員が首長に妨害されたので小銃を携帯させると、投石を受けた。12日、大首長が船に来て「なぜ戻ってきたか」と尋ね、クックの答えに満足していない様子だった。
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クックは態度を硬化させ、盗みをする島民に過酷な刑を科し、「彼らの行為のため、やむなく力に訴えざるをえなくなった」と言った。14日の朝、ディスカヴァリ号の小艇が盗まれると、クックは上陸して大首長の家へ行き、「一緒に船まで行こう」と促した。大首長を人質にして、盗人を捕まえようとしたのだ。
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大首長が浜辺まで来ると、彼の妻と首長たちが「行ってはならない」と阻んだ。大群衆に囲まれたクックは、大首長を船に連行することを断念し船に帰ろうとしたが、群衆が投石で海兵を倒したので、1人を射殺。総攻撃を開始した群衆への発砲を命じ「ボートに退避」と叫んだが、まもなく姿が見えなくなった。
海軍本部の命令書に基づいて艦隊の指揮をとったディスカヴァリ号クラーク船長は、士官たちと協議しながら事態を冷静に処理した。まずヘイアウ付近で修理中だったマストをレゾリューション号に運んで装備。16日には島民との和平を回復し、クックの遺体を引き取る交渉を開始。
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ハワイの慣習では、敵の死者の遺骨は社会階層に従って分配されたため、クックの遺骨は大首長が所有し、19日に返還された。4人の海兵の遺骨は島じゅうの首長たちに分配されていたので、回収は不可能とのことだった。21日午後、クックの遺骨は棺に納められ、海軍の礼式に従って、ケアラケクア湾に葬られた。
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2隻の船は22日、ケアラケクア湾を出航し、北に向かった。7月6日にベーリング海峡を越えたが、季節が早すぎて氷原に阻まれ、前回に及ばない北緯にしか到達できず、結核を患っていたクラークは8月22日、カムチャッカで死去。船は日本列島沿いに南下。マカオ、ジャワ、喜望峰を経て1780年10月4日に帰港。
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