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ホクレア号①双胴カヌーでハワイからタヒチへ

初めてのハワイ旅行から帰国後、池澤夏樹の『ハワイイ紀行』(Hawai‘iは正しくはハワイイと発音)を読み、フラを踊る人、レイを作る人、ハワイイ語を話す人、サーフィンで波と戯れる人…様々な人が、それぞれの形で、ハワイイの文化を守り育てていることを知った。特にホクレア号のエピソードは印象的だった。

1995年2月、池澤夏樹はハワイイ島のロアで、4000㎞南にあるタヒティ島への1か月に及ぶ遠洋航海にむかう2隻のカヌー「ホクレア」「ハワイイロア」の出発式に立ちあう。太い材をくりぬいて造った長さ20mの2つの船体の間に広い甲板を渡した双胴のカヌーで、2本のマストに張った帆に風を受けて走る。

彼らには遠くから自分たちがこの島々へ渡ってきたという神話的な記憶はあったけれど、それは非常に昔のことで、遠い父祖の地との具体的な結びつきはもう消滅してしまった。過去のある時期には、その父祖の地との間に頻繁な行き来があったのではないか。だが、この広い海を渡る技術が彼らにあったのか。

池澤夏樹『ハワイイ紀行』1996年 新潮社

太平洋諸島に住む人々は東南アジアから来たと言われる。3万年前の氷河期、地表は氷に覆われ、海面は低くなり、東南アジアからオーストラリアやニューギニアへは徒歩で渡れた。この時に第1次の移民が進出。この後、氷が融けて海面は90mも上昇し、多くの土地が海によって切り離された。

6000年前、第2次の移民が東南アジアから東へ。この人々は、ある程度の海洋航海技術と舟、島から島へと渡る勇気を持ち合わせていた。彼らは、4500年前にはニューギニアに達し、その1000年後にはソロモン諸島、ニューヘブリデス、フィジーへ展開。紀元前1200年にはトンガ、サモアなどに人が住んでいた。

紀元前後にはマルケサスやタヒティへ進出。こうしてポリネシア人は太平洋の島々に広がり、紀元1200年ごろには、南のニュージーランド、東のイースター島、北のハワイ諸島を結ぶ一辺が8000㎞の広大なポリネシアの三角形のほぼ全域を満たしていた。ハワイイにも人が来て、安定した暮らしを確立していた。

太平洋諸島に住む人々は東南アジアから来た

海の真ん中の島に住む人々は、島から島へ望む時に渡れなければ、生活は成り立たない。彼らには、羅針盤や六分儀なしに海を渡る技術があったと考えなければならない。太平洋各地に優れたカヌーがあり、航海術に長けた男たちがおり、船は水平線の彼方にある島々の間を行き来していたのだ。

1973年結成のポリネシア航海協会は、古代風の遠洋カヌーでポリネシアを往復することを決め、「ホクレア」を造る。この種の船はハワイイには残っていないので、喫水線下はトンガとタヒティの船の形、水より上はハワイイのカヌー、帆はポリネシア各地で見られるカニの鋏型を採用。1975年3月に進水する。

ホクレアとは牛飼い座のアークトゥルス。7月初めなら夜の7時頃、ハワイイの真上を通る星。この星が頭の真上を通れば、自分たちはハワイイ諸島と同じ緯度にいるとわかる。南から来た者は、この星がだんだん高くなるのを見て、ハワイイに近づいていることを知る。帰路をたどる船にとっては、故郷の星だ。

ホクレア号

当面の目的は2つ。①「ホクレア」は帆走でハワイイからタヒティに行けるか。②近代的な航海術に頼らずにタヒティを見つけられるか。操船技術は向上し、貿易風を受けると時速11㎞で走れるようになる。伝統航法の航海士はミクロネシアのカロリン諸島サタワル島のマウ・ピアイルグを招聘。

1976年8月26日、タヒチからホノルルに帰ったホクレア号

「ホクレア」建造に関わったメンバーの一人デヴィッド・ルイスは1961年、伝統航法を見つけ出そうと西太平洋を巡り、ポロワット島の伝統航法に出会う。サタワル島にも伝統航法は生きており、2つの島は航海競争に興じた。マウは1975年、サタワル島から沖縄海洋博会場までカヌーで渡る実績を残していた。

1975年、サタワル島を出航し、沖縄海洋博会場に向かうチェチェメニ号

1976年5月1日、「ホクレア」はマウイ島を出発。ハワイイ島を通過すると、島影ひとつない大洋。何日も曇りの日が続いた後に北極星が見えると、マウは、船の位置を推測し、次のコースを決めた。星と太陽と風とうねりが基本だが、雲や海鳥や海面の色や燐光も大きな助けになる。彼は海全体を読んでいた。

1976年のタヒチへの航海で航海士を務めたサタワル島のマウ・ピアイルグ

「ホクレア」は北東の貿易風を受けて南へ。北赤道海流、赤道無風帯、赤道反流を越え、南東の貿易風を受けて南赤道海流を越え、6月4日にタヒティ島に到着。マウは、自分が知る海域をはるかに離れたところで、船を目的地に着けた。彼の航海術が、別の海へも応用のきく高度なものであることを証明した。

1976年6月4日、タヒティ島パペーテ港に到着し、1万7千人の歓迎を受けるホクレア号

しかし、マウは航海中、乗組員に信用されず不愉快なことが多かったので、「2度とハワイイには行かない」と言って、タヒティ島からサタワル島へ帰ってしまう。「ホクレア」は近代的な装置を使って進路を見つけ、ハワイイに戻る。帰路の船に乗り組んだ1人が24歳のナイノア・トンプソン。

1976年、24歳のナイノア・トンプソン

ナイノアは、ビショップ博物館のプラネタリウムなどを活用して、星の羅針盤を独学で学び、1978年にタヒティ島への航海を実行するが、オアフ島とモロカイ島との間のカイウィ海峡で遭難。乗組員で伝説的なサーファー&ライフガードのエディ・アイカウが助けを求めに「ホクレア」を離れるが、行方不明に。

伝説のサーファー&ライフガードのエディ・アイカウは1978年の航海で行方不明に

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