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日記 2023/9/17 おにぎりと新幹線



北へ向かう。5月ぶりに新幹線に乗った。
私は仕事終わりにバタバタと身支度をして東京駅へやって来たけれど、世間は三連休の中日で、新幹線の乗り換え改札口は大きな荷物の人で賑わう。岩手に着いたら祖父母と母と焼肉屋へ向かうことになっている。はやぶさは早い。2時間もすれば着いてしまうけれど、この小腹の空き具合とやり場のない小浮かれをしっかりと身体で確かめたくて、売店をうろうろしながら胃袋への問いかけの時間とする。シュウマイ弁当の魅力に取り憑かれて暫く見つめてしまったけれど、やめた。お茶と、コンビニではなくて専門店のおかかのおにぎりを買った。

夜の東北新幹線は、ほとんどの時間が真っ暗だ。小さなころから、新幹線といえばほとんどが東京・盛岡間で、他の場所の道中をすぐに思い出せないのでなんともいえないけれど。5月に福井から新幹線で東京へ帰ったときもそうだったけれど、夜の車中は静かで、皆しっとりとした疲労感を纏っている。私のように仕事を終えたひともいれば、行楽地でのひとときに体力を使ったひともいる。携える土産店の紙袋に箱がいくつも入っているのを見ると、どのような時間が過ごされ、その土産たちが誰のもとへ時間を繋ぐのか問いたくなる。
専門店のおにぎりは、米が違う。粒だっていて少し硬くて、甘味が強い。私が大好きなタイプの米粒。新幹線のテーブルを開くとき、なんでこんなにも気分が高揚するんだろう。何歳までこの気持ちでいられるのだろうか。あっという間に食べてしまって、小腹を満たすどころか“誘い飯”になってしまった(私による造語で、食べることでさらに食欲が湧いてしまうちょっとした食事のこと)。

『犬まみれは春の季語』は柴沼千晴さんという方が書かれた本で、日記形式になっている。親しくするひとが西へ旅行に行ったときのお土産にもらった。美しいブックデザインで、ポケットに忍ばせたい慎ましさがある。薄い本だけど、遊びの部分が半透明の薄紙で、表紙を捲ると扉に書かれたタイトルがうっすら現れるのが、たまらない。またかけがえのない一冊が増えてしまった。
読み始める。エッセイや日記を読むとき、書き手について全く知らない状態から始めるのも好き。アメーバのように書き手のイメージをぐにゃぐにゃと頭の中で変化させながら、徐々に輪郭を知っていく。柴沼さんは美しい文を書くひとだった。どうやら音楽が好きで、スピッツとカネコアヤノの名前が頻出する。
半分ほど読んだところで、瞼が重くなってきた。3時間睡眠の4時半起きが今になって姿を現す。カネコアヤノの、アコースティックバージョンの「祝日」を流しながら目を瞑る。
〈いまのわたしには“祝日”がけっこう似合うと思う〉。柴沼さんがそう記したページがあった。


〈例えば甘やかしてくれるなら、それはもうダメにしてくれ〉というカネコアヤノの歌声で目が覚める。私が好きなことや苦手なことを捉え直して迷っているとき、大切なひととともに私を支え続けてくれた曲だ。窓際の席でよかった。外は相変わらずの闇で、どれくらい眠ったのかも予想がつかない。現在地を見ると、福島市付近。東北の縦の長さはいつも予想以上だ。
文を読んでいると文が書きたくなる。パンのたねのように、少し混ぜれば頭の中で練り上がる具合で。日記をつけることにした。友人がこっそり始めたコラムを見せてもらったが、生活と思考の結びつけ方がうまかった。私は文を書く時も声で話すときも、終着点のないまま数珠繋ぎに事柄を並べてしまうから、彼の文に憧れてしまう。筆記用具を忘れたことを後悔しながら、端末に打ち込む。そうこうしているうちに仙台に到着した。北へ向かうにつれて期待していた秋の空気。半袖短パンの人々が、その裏切りを語っている。
明日には蜻蛉返りだ。それに、明日は祖父母宅で不要になった車で、高速道路を南下して帰ることになっている。車の旅も、飛行機や新幹線の旅も好きで、もしかして今すごく楽しいことをしているんじゃないかと改めて思う。でも大人だし、ひとりだし、はしゃげない。乗り慣れた風で座席にもたれる私が、闇を湛えた車窓に反射してこちらを見ている。心の底から慣れてしまう日が来ませんように。突然訪れる非日常を、いつまでもこの手で掴んで愛せますように。祈ってる間に、気づけば盛岡はすぐそこだった。

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