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#勇気の芸術19 『思考停止さん』

『思考停止』って言葉をいつの間にか日常で使うようになったなあと思って、ちょっと気になったので『思考停止』を覗いてみることにした。

いつからあるのかなと、ググってみる

・『思考停止』は1928年には提唱されてる
・1950年代以降、強迫観念・恐怖症の治療のために一般的になっていった
・2014年くらいからWEB上で頻繁に『思考停止』が出てきてる
・なので、僕が生まれる前から『思考停止』はいる

ざっくりとそんな感じ。
自ら頭を働かせて行動する意思がない状態を『思考停止』と呼ぶみたい。もう少し身近にしたいので日常での『思考停止』をいくつかに分けてみた。

人を巻き込む思考停止

『人を巻き込む』っていうとリーダーシップ能力のようで聞こえがいいんだけど、どうやらこれは逆方向のリーダーシップかもしれない。
まずは「人のせい」にする習慣は思考停止だと思った。

何か上手くいかないことがあると「人のせい」にばかりする。そういう雰囲気の職場やコミュニティでは、人間関係にトラブルが起きやすいっす。
「人のせいにする人って中高年のおばちゃんに多いのでは?」という質問があったので調べてみたんだけど、定性的なデータは出てきづらい。
なので『人間関係の悩み』から調べてみたが、どうやら年齢や性別ではなく『パート』という雇用形態の人たちにこの悩みが多いみたい。

当然『時間を売っていれば収入を得られる』という環境には、思考停止だらけになるのは目に見える。その中でも自分を成長させようというモチベーションを持つのはなかなか苦しいように思う。こういった現状を経営者やトップが認識できていないと、職場やコミュニティ内のリーダーが苦しむことになるのは目に見えている。(リーダーの「せい」にされ易いけど笑)

「人のせいにする」を言い換えると『色々と不満はあるけど自分が変わらないという選択肢の方が楽』というところ、かな。
『自分が変わるために考える・行動する』を選ぶというのはなかなかエネルギーがいるんだけど。
かといって、自分を責めて欲しいわけじゃない。責めても辛くなるだけで解決にはならないのでやめて欲しい。上手くいかないときにしか次のチャンスは生産されないので、上手くいかない自分も肯定して欲しい。
よーくよーく環境の中で何が起きているかの本質を見抜ければ、自分も仲間もまずはご機嫌で居れるくらいにはできる。
つまりこの場合、特定の年齢・性別に「人のせいにする人が多い」のではなく、「思考停止に陥りやすい人が集まる環境がある」と考えた方が、課題の解像度が高まり、人は憎まずに、変化を起こしやすくなる。
みたいな方が健康っぽい。



せまい思考停止

壁に当たったときにも思考停止は起きやすい。
現在の自分から見える景色のみで考えるとそうなるんだと思う。
人のスキルを借りてもいいのに、対話・コミュニケーションを通して人の知見を集める能力が身についていないとこの状態を続けることになりやすい。
とりあえず作業に取り掛かって、手が勝手に思考してくれるという考え方もある。

少し見る角度を変えると「思考しなければいけない」というマインドもなんだか息苦しいように思う…
創造のプロセスでは『〇〇したい』が根っこに在って欲しい。でないと、本来の目的から外れて苦しみのみになり、次回以降の行動シーンでお尻が重たくなってしまうかもしれない。
『〇〇したいから、△△しなければ達成できない。』というように、
「しなければいけない」は決して「したい」より前に君臨してはいけないのだと思う。

特にリーダー格の人にこういう思考が当たり前になると、世の中に今植え付いている「生きづらさ」を早く減らせるかもしれないとも思っている。
影響力のある人が息のしづらいマインドを持っていると、周囲のモチベーションが著しく低下しちゃうからね。
(部下がずば抜けたリフレーミング能力を持っていれば例外は起きる。そういう部下は将来の才能が発言しやすい。)

ちなみに、新しいモノやコトに出会っても『私は関係ない』が先に立ってしまうような好奇心を無くした状態も、せまい思考停止だ。これはただただ残念。



人任せな思考停止


二次情報だけを取り込んで行動を決めることも危険な思考停止。(プロパガンダ、陰謀論をただ信じるなど)
誰かのアウトプットは必ず誰かの視点である。
それは知識としてインプットするのはもちろん必要だが、自分にとってその情報がどのような意味になるのかは、極論ひとそれぞれ違う。今自分が何を知覚しているかが思考の始まりであり、自分のために探求心は担保したいところ。

『誰にも嫌われないように』を最優先して行動することも、根深い人任せな思考停止だ。


させてしまう思考停止

子どもの成長過程で、親が思考停止を誘発してしまう危険は日常の瞬間瞬間にある。
何でもかんでも親が決めてしまう、何でもかんでも安全な環境を用意してしまう、何でもかんでも監視する…
この何でもかんでもが親の思考停止であり、何でもかんでもの変態的な考え方でキョウイクを受けた子どもたちは自分の知覚をふさぎ込まれたまま大きくなる。知覚が開かれていないと、自分の意見を持つということすら将来大きな壁となる。

一方、叱るという行為自体も相手の思考停止を生みだす。
〈叱る依存〉がとまらない の著者である村中直人さんの考察が興味深いので引用する。

「叱られた人間は基本的にネガティブな感情になる。神経科学的にはストレス、負荷がかかった時、知的に理解したりとか物事を深く考えたりする前頭前野の活動が有意に低下するということが分かっているので、記憶力、理解力が落ちる可能性がある。」

危機回避のための即効性、抑止力としての「叱る」の効果は必要な場面もあるとは思うが、慢性化・エスカレートした「叱る」は学びや成長のためにはほとんど意味を持たなくなるようだ。そして叱る人はどんどんエスカレートしてしまう。
叱られた人は「とにかく叱られないよう回避する」ことのみに集中し、思考停止状態から抜けづらくなっていく。



おわりに

身近な思考停止をツラツラと書きだしてみたけど、してしまう側も、させてしまう側も原因は限定できない。
『社会の流れは人々に思考停止を促すように感じる』という記事を見つけたが、全体として意志があるわけではない社会が、意図してそうしているとは思わないけど、結果的に思考停止が促されているのは共感できる。

自分は「何だか生きづらいな」と感じたら、必ずと言っていいほど他の誰かも同じ生きづらさを感じている。
「自分で何とかしなきゃいけない」と誰が教えてくれたか分からないけど、そんなことはないので自分の答えを誰かに任せないで欲しい。




世界の大半のコトには正解も、間違いもない。
そう思えると何だか健康になる。
自分の答えは明日には変わってるかもしれないし、
そしてそれでいいと思う。

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〈参考・引用〉

(↑とにかく面白い。昔のシン・ニホンだと思ってる。)

(↑生きづらいときに「誰のせいでもない」と理解できるような一冊)

(↑叱ったことのある大人に読んで欲しい)

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