見出し画像

健康診断をしたときの話

 健康診断で血液を採取するとき、看護師に申告して、ベッドで横にさせてもらっている。血液検査をした際、貧血で倒れた過去があるからだ。そのときに起こった不思議な体験について話す。

 大学の卒業式が終わって2、3日経ったくらいのころ、僕は地元の民間病院に向かって歩いていた。内定をもらった企業から、入社前に健康診断を受けておくように伝えられたからだ。入社初日に、年金手帳などとともに、健康診断書を提出しなくてはならない。
 路肩には辛抱強く雪解けを待っていた若草が意気揚々と芽吹き、頭上では雲雀が朝の挨拶を忙しなく交わしていた。
 携帯電話で時刻を確認すると、午前8時50分だった。このままのペースで歩いていけば、病院の開く時間ぴったりに到着できるだろう。
 僕の目蓋は重かった。意識ははっきりとしていたが、ぼんやりとして焦点が定まらない。だがそれは、地面から立ち上ってくる陽気な春の匂いのせいではない。
 昨晩、一睡もできなかったせいだ。
 夜ふかししようとしていたわけではない。健康診断前ということで飲酒も控えていた。
 しかし、明日の朝早くから予定があるという軽いプレッシャーからか、なかなか寝つけなかった。布団のなかで寝返りを打つうちに、時計の長針は4時を回り、やがて5時を過ぎた。
 このくらいの時間帯になると、無理して眠るより起きていたほうがいいだろうとの考えに至った。人の少ないであろう午前9時に予約を入れた自分を恨みつつ、夜が更けるまでYouTubeを観ながら漫然と時間を潰したのだった。

 病院は小さかった。背の低い平屋で、外観は白い。正面だけガラス張りになっていて、待合室が透けて見えた。すでに2、3人が椅子に腰掛けて受診を待っていた。
 病院内に足を踏み入れる。
 この病院には何度か通っていたが、最後に訪れたのは3年前だった。そのころとなにひとつ変わっていなかった。ふんわりとした暖かい空気、うっすら漂う消毒液の匂い、本棚が小さいために24巻で更新が止まっているナルト。それらの要素を、ゆったりと流れるオルゴールのメロディが撹拌していた。
 受付を済ませると、すぐに名前を呼ばれた。
 検尿、身長と体重の測定、視力と聴力のチェックを順調に済ませ、血液を採取する段取りになった。
 担当したのは20代後半くらいの女性だった。ショートカットで、卵みたいな形の顔をしていた。
 彼女は、慣れた手つきで、左腕の静脈に注射器の針を挿入した。最初にお決まりのようにチクッとした痛みがあったが、それ以降まったく痛みはなかった。
 注射器の筒に赤い液体がゆっくりと流れ込んでいく。それがすっかり満たされたところで、針が抜かれた。
 問題なく終わってほっとしたのも束の間、彼女は「2本目とりますね」と言った。過去の血液検査では、1日に1本より多くの血を採られた経験がなかったので、僕はやや狼狽えた。
 再び注射器が血管から血を吸い上げる。
 そのときから、文鎮を頭にのせられたかのような違和感を覚えはじめたが、気にするほどでもないと無視していた。
 胸部のレントゲンを撮るため、隣接していたX線検査室に入った。この検査が終われば、全行程が終了となる。
 上着を脱いで、壁際に設置されていた板に胸を押しつけた。ひんやりとした感触が伝わってくる。そのようすを確認して看護師が部屋から出ていった。
 瞬間、異様な眠気に襲われた。
 それまでもうっすらと感じていた眠気だったが、今までとは比べものにならなかった。今までの眠気がさざ波だとすると、津波に等しかった。
 うわ、なんかやばい、と思う間もなく、意識が突如ぷつんと途切れて、視界が真っ暗になった。

 無だった。
 完全な無。
 なにもない。
 なにも考えられない。
 瞑想などで頭を空っぽにしなさいとよく言われるが、こういう状態を指すのかもしれない。

 しばらくして、闇のなかに動くものが現れた。
 だんだん近づいてくる。
 それは……


 首のない地蔵だった。

 地蔵は立ったまま手を合わせていた。全体的に灰色だが、下半身には苔が生え、緑と白の斑模様をつくっている。肝心の首の断面は、剣豪に切り落とされたかのように滑らかだった。

 地蔵の顔があるはずの虚空を見つめる。そこには凝縮された闇が詰まっているだけのはずだった。

 背筋を冷たいものが走った。

 地蔵の顔はなかった。だが、たしかに




 目が合った。




 なんだか躰が温かい。ぬるめのお湯に浸かっているみたいだった。
 僕はゆっくりと目を開いた。ベッドの上に寝かされている。
 看護師が僕の両足を持ち上げていた。血を頭部に送るための処置をしてくれたようだ。
 貧血で倒れたのだ、と気づくまでに時間がかかった。

 意識を取り戻したあと30分くらいベッドで寝かせてもらった。
 今後は念のため、血を採るときは倒れた経験があると申告するようにと伝えられた。
 もう大丈夫だろうという医者のお墨つきをもらって、僕は待合室に戻った。
 待合室に戻る途中、看護師に「ご迷惑おかけしました」と頭を下げたが、彼女は「大丈夫ですよ」と微笑んだ。今までより白衣が眩しく見えた。
 レントゲン写真は倒れる前に撮影できていたようだ。健康診断書は後日受け取りに来ればいいらしい。
 僕は病院を出た。
 空が高かった。

 自宅へ戻った僕はベッドに倒れ込み、そのまま眠った。
 夢に地蔵は出てこなかった。



 そんな経験もあって、血液検査をするときにはベッドで横にさせてもらっている。
 今でも血液を採取されるたびに首なし地蔵を思い出す。でも、その記憶は年々ぼんやりとしだしていて、はっきりと思い出せなくなりつつある。
 それから地蔵が怖くなったといったことはない。あの地蔵のイメージは、脳が再起動する瞬間に発生した誤作動の一種だったのだろうと理解している。

 むしろ、あの地蔵にはもう一度会いたい気持ちのほうが強い。
 自分の脳がつくり出した幻なんかではなくて、超自然的な存在だったら面白いなとの期待がある。

 でも、もしそうだったとしても、次に出会えたときにはもう、僕はこの世にいないだろう。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?