もし選べるのならば、愛を選びたい。

 花もはじらうピュアピュア乙女・女子校のお嬢・ウブなヲタク少女。
そんな中学生だった約5年前。

ある日ドン・ジュアンに出逢ってしまった。
そして、

瞳を見ただけで、恋に堕ちた。


見た・だけで。


ドン・ジュアンとの出逢いは、まだ白百合のような無垢な私の心に赤い血の染みをつくった。


 ドン・ジュアンといえば、スペインの伝説的なプレイボーイであり、ティルソ・デ・モリーナ作『セビーリャの色事師と石の招客』をはじめ、モリエールやモーツァルトの喜劇の題材ともなった色男の代名詞だが、しかし今回私が話すミュージカル『ドン・ジュアン』はなんというドン・ジュアンだろう。従来の喜劇的要素はもはや姿を見せず、見事に、そして残酷なまでに悲劇的人物として舞台上に君臨したドン・ジュアン。イケメンヤリチンクズ男、欲と憎悪に燃える酷い男、だけどどこか真っ黒な孤独を抱えている、かわいそうなドン・ジュアン。



愛おしいドン・ジュアン。

 おぞましい欲にまみれたその石のように冷たい瞳は、どこかしらけたかんじで女たちを見つめているが、しかしその奥でセビリア的な情熱の血をふつふつとたぎらせている。彼の瞳から発する欲望のエネルギーが女たちを捕らえ、女たちに愛の呪縛をかける。もうお前たちは俺からは逃れられない。——この俺、ドン・ジュアンの名がお前たちの愛の悶絶と共に叫ばれ、求められれば求められるほど、俺の果てなき欲望は燃え上がるのだ。登場初っ端から女たちに代わる代わるキスしまくるドン・ジュアン。なんちゅー脚本だ。


ダメ、ダメ、おかしくなっちゃう……。かっこよすぎる。

ドン・ジュアン。あなたのまなざしに、ダメにされちゃいそう。


叫ぶ女、崇拝する女、身悶えする女、膝から崩れ落ちる女、放心する女……。ここにいる女たちは皆、ドン・ジュアンを愛している。もう、みんなダメにされてる。こんなにまで舞台上の登場人物のほぼ全員の女性キャラクターが主人公を愛しているミュージカルはかつてないと思う。さらには舞台を観に行った観客までもがきっと、ドン・ジュアンを好きになっちゃう。ハーレムかよ。


 女たちは皆、ドン・ジュアンを愛すると同時に、同じぐらい憎んでいる——私はあなたにすべてを捧げたのに、石のように冷たい心で捨てたのね——私の愛はあなたには届かない。ドン・ジュアンは愛を否定する、馬鹿にする、踏み躙る。それは私を苦しめる。


 ドン・ジュアンに捨てられてもなお彼を「私の夫」だと信じ続けた女、エルヴィラ。ドン・ジュアンを信じ、愛するために神を裏切り修道院を出た、無垢な貴族のお嬢様。彼女が裏切りの残酷さに打ちひしがれながらも必死に愛を訴える場面は、かなしみと憎しみと嫉妬とやるせなさで引きちぎれそうで、痛々しくて、せつなくて、めちゃくちゃに泣いた。
というか共感した。ただ愛されたい、「神の愛」のような無償の愛がほしい。だけど彼の愛は誰に対しても開かれない。ドン・ジュアンの私を見る目は濁っている。彼が受け止めてくれない私の愛を、どこに振り下ろせばいい?行き場の無く彷徨う女、エルヴィラ。愛を否定され、怯えきった魂が、ひとり必死に歌う。


 そんな彼女の姿が、女子校出身のウブお嬢の私には「他人事じゃねえ……」と現実味をもって切々と胸に迫った。



 他人事じゃねえ……過保護なお嬢様校を出て、大学生になった私。高校生の頃までは無償で守られた環境に居た私。人々は愛に包まれて生きているんだと思っていた。でも実際、外の世界に出ると、世の中には愛が欠乏しているのだという空虚な渇いた寒気を、なんとなくだけど、感じるのだ。

 愛なんて知りません、って顔しながら生きてる現代人。愛なんてものは滅多に人に見せるものではないと言い聞かせ、愛の否定と、否定された愛を挽回しようという試みによって人々を繋ぎ止める社会。愛をひた隠しにしながら生きる人々。現代において愛を虚構とするドン・ジュアン的思考の人間はそう珍しくない。


 愛の否定を恐れること知らずにドン・ジュアンに捧げたのに、拒まれ、傷ついたエルヴィラ。愛を伝えてなぜ傷付かなければならないのか。愛を伝えるとは、苦しみや羞が伴わなければいけないのか?愛の存在を恐れ隠蔽し、そして愛の暴露を侮辱と捉えてしまうキッチュな社会、そんな現代において、誰もが愛を小馬鹿にしたドン・ジュアンになり、また、誰もが自らの愛の露見に辱められるエルヴィラになりうる。愛ではないものの快楽にまみれた世の中ではドン・ジュアン的に生きた方が生きやすいかもしれない。ドン・ジュアンみたいにカッコ付けちゃって、孤高の帝王のように、普段は愛を隠して生きる私たち。愛の不在の中で浮遊する全能感と痛快さ!



でも、隠したままで、いいの?

隠された愛は、屈折し、婉曲し、へどろとなり、身悶えしている。どこにぶつければいい、この醜く変貌した愛を?



虐待、DV、嫉妬、犯罪、殺人?


 ドンジュアンもまた、否定した自らの歪んだ愛の拳を、女達の愛を裏切ることによって振り下ろした。ドン・ジュアン、あなたの愛は堕落しきっている。それでもなおエルヴィラは神の愛を信じている。愛による救済を信じてる。
いや〜泣いたわ。


 そういった意味では、ヒロインのマリアもまた、ドン・ジュアンと同じく、愛をひた隠しに生きてきた女性なのかもしれない。真実の愛を抑え、偽りの愛によってラファエルと結ばれようとしていたマリア。唯一石像を彫ることだけが彷徨える愛の拳を振り下ろせる機会だったのかもしれない。(だからドン・ジュアンと出逢ったマリアは自らの愛の居場所を変え彫刻を作るのをやめてしまったのかも)石像を彫りながら自らの表現に向き合うマリアの姿は自由で美しいとドン・ジュアンは言う。それは、嘘偽りのないマリアの愛が芸術によって開かれ、芸術を媒介としドン・ジュアンを想うマリアの心がドンジュアンの奥底に響いたからかもしれない。


 ミュージカル『ドン・ジュアン』において、マリアのことについて、あまり多くが語られていないように思える。謎に包まれたマリア。マリア……聖母マリア?マグダラのマリア?マリアの存在は、他の登場人物と比べて抽象的だ。

 たぶんだけど、マリアの愛は、ドン・ジュアンの愛とともにあった。ドン・ジュアンの愛にとってのHomeはマリアの愛であり、マリアの愛にとってのHomeはドン・ジュアンの愛だった。私にとって、マリアとドン・ジュアンはあまりに近すぎる。だからマリアについて語ることが難しいが、マリアがフラメンコのリズムと共にドン・ジュアンへの狂おしい愛を情熱的にうたいあげる場面(初演では無かった)では、マリアというキャラクターへの解釈が深められたと思う。マリアは特別な女なのではない。ドン・ジュアンを愛する他の女たちと同じだ。皆同じ愛に生きている。


 セビリアの灼熱の太陽の下で情熱を燃やし、愛に生きる人々に心を打たれる。どれだけ愛を隠し、愛を偽っていたって、それでも皆愛に生きている。愛は素晴らしい、愛は苦しい、愛は喜ばしい、愛は恨めしい。さまざまなうごめく愛の中でドン・ジュアンは生きた。愛は、ドン・ジュアンに、キャラクター達に変化をもたらした。でも誰も「愛」の真実には達せていない。


 愛という永遠のテーマに試行錯誤する人間たち。愛のアンサーを求めて生き、争い、死に、それでもなお人類の愛への壮絶なる旅は続くだろう。

ミュージカル『ドン・ジュアン』は、そういった果てなき愛に対して捧げる愛の賛歌であり、愛という本質への挑戦であり、愛への大きな謎かけなのだ。 


 もし選べるのならば、愛を選びたい。ドン・ジュアンの友人カルロはそう歌う。


ドン・ジュアンのように醜い姿に変わり果てた愛があったとしてもいい。愛の不在は耐えられないから、それよりは愛を選びたい。ドン・ジュアンを愛する女たちは皆そう願う。愛は時に愚かで残酷かもしれないが、それでも、他のニヒルな何かよりも愛を選びたい。



 とても愛について悟りきった年頃とは言えないただの小娘甘ったれお嬢の私だが、この現代に若く生きる者として、もし選べるのならば、愛を選びたいと、そう願う。


グランドアモーレ。偉大なる愛だ!
(ルイジ・ルキーニ)






いやしかし、カルロ、よく見たらイケメンだしめっちゃ性格いいし、ドン・ジュアンよりいい男じゃん。なんでみんなカルロを選ばないの?愚かだなあ。私はもし結婚するならば、ドン・ジュアン
よりカルロを選ぶ。その方が精神安定しそうでいい。
【悲報】ドン・ジュアン、フられる。




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