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布施をすると人の気持がわかるようになる/仏教、写真

人の苦しみはその人にしかわからない

理解なんか出来ないと言う方がSNSでも

いるかと思います。


確かにそうなんですよね

痛みや苦しみや悲しみは体験しないことには

どんな思いかわかりません。

だから半端に共感しようとすると相手を傷つけることもあるのは事実です。

ですがこの一生で受ける苦しみや悲しみは限度があります。

全ての苦しみを味わうことは不可能ですし

それをわざわざ自ら味わおうとするのは

偏った苦行のようなものですので誤りです。



仏教の教えに六波羅蜜という教えがあります。

波羅蜜とは完成という意味があり

此岸という迷いや悩み苦しみの世界から

彼岸という迷いのない苦しみから解き放たれた

自由自在の世界という意味合いがあります。


即ち此岸は苦しんでいる娑婆にいる人達、

彼岸は人格完成に向かう仏様になる道と言って

良いかと思います。



その中で始めにするのが布施であります。

布施とはサンスクリット語でダーナと言い

この言葉が変化し旦那という言葉になりました。



この布施には3つの布施があります。


財施


法施


身施


です。


財施は言うまでもありませんが

誰かにプレゼントしたり食料に困っている人

や誰かの為に寄付をしていく事で人の役に

たつことを財施と言います。


お金は生活に直結していますので

執着が強くなりがちです。

そして

賭け事などをしてそのスリルの緊張感が

やめられずスポーツ賭博などでは

年間一兆円規模だと云われています。



その執着が人を裏切り 騙し 嘘をつき 盗み 

自分も周りも苦しめることになります。

執着を捨てるにはまず人の為に使う習慣を

作ることが大切です。

その為に財施という布施が重要になってきます。


そして相手に財施をしてどうか

この仏道に歩んでもらう功徳にさせて頂くという

心を持つことが大切だと思います。

功徳とは相手の幸福になる行為という意味です。




2つ目は法施ですが

仏教や他の宗教でも構いませんが

真理を人に伝えていくことを言います。


ですがそれ以外でも

例えば道を教えるのも知らないことを

教えるのも法施です。

または楽器や絵画などを教えるのも法施です。

楽器を教える中でただ単に技術を

教えるだけではなく音を通じて

人の心を穏やかにしたり

元気を与えたり悲しみ寄り添う音に

するためにはどうしたら良いのか

そういったことを教えるのが最上の教え方です。


3つ目の身施ですが


これは字の如く体を使って布施をする事です

重いものを持ってあげる、力を要する仕事をする

誰かの手伝いをするなどをしていくことです。

世の中には体が弱くて動けない人もいます。

そんな人が健康に元気に人の為に動けるようにと

願いながら身施をしていくことでこれも最上の

布施になっていくと思います。



こんなお話しもあります。

江戸時代の百性が一鍬、一鍬畑を耕しながら

野菜を食べた人が煩悩が滅するようにと

南無阿弥陀仏と唱えていたそうです。

これが最上の身施だと思います。


料理を作りながら食べてくれた人が煩悩を滅し

幸せな毎日を過ごしてもらいたい

そう思って作ることも世界平和に繋がります。

そういった食事には必ず目に見えぬ力が

宿っているものです。

だから食べた人は元気になり

健康になっていきます。




色々お話しましたが布施というのは

お金を巻き上げて悪巧みをするために


あるものでは決して無いのです。





この六波羅蜜の1つである布施は

慈悲の心がある事が大前提です。

慈悲の心とはあの人もこの人も幸せになってもらいたいこの人のこんな悲しみを取ってあげたい

そんな優しさです。



そうして繰り返し繰り返し布施をしていくと

心が清らかになり美しい心の状態になります。

そうする事で人を慈しめたり人の悲しみが

自分ごとのように悲しく感じてきます。


ですので

必ずしも全ての苦しみを味わう

必要はないのです。


この他にも

人と会えば笑顔で接したり

慈しみの眼で相手を観たり

優しい言葉をかけたり

人の話を聞いて不安な心を安心させたり

席を譲ったり

家に招待をして、もてなしたり

様々に布施は出来ます。



最初から中々できるものではありませんから

苦しみを感じる方もいるかもしれませんが

少しずつ清々しい心に必ずなります。

何故なら

そんな優しい心が誰にでもあるからです。


その心が仏様と同じ心

即ち仏性というものがあるのです。

その心が私達平等に頂いた尊い心です。


この仏性が輝いていければ

私達は幸せでいられます、

その為には布施をしていくことです。


その一歩一歩が道となって確実なものになり

布施をしなきゃから

布施をしたくて仕方がないと

自然に思うようになるのです。


世間では布施というと新興宗教への献金の

イメージですが 本当は、本当は

それは己の心を清め

人に施す心を育てる為のものであったはずです。


にも関わらず

〇〇日に財施しましょうだとか

言葉巧みにお金を絞り上げ団体の懐に入れたりと

本来の意味から遠ざかっています。


布施を貰う側も、もらってもニヤニヤして合掌も

せず頭も下げられない馬鹿な宗教家や

どこそこに数千万円寄付をした、感動だ とか

言って金額の大小で善し悪しを決めている

低俗な馬鹿宗教家もいます。


これでは本末転倒であり平和にしていく側が

これではもう世界平和など絶望的です。

こういう人を私は宗教ヤクザだと思っています。



体を使って行動ではなく

心を使って行動するのです

それで始めて体というのは本当の意味で

動くのです。


何故なら体というのは心から作られています

どんな事も根が重要であります。



どうか布施の本来の意味にもう一度立ち返り


仏教の真理が正しく広まるよう願うばかりです。


















































































































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