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【オサムとアトムと】「アトムの最後」これが鉄腕アトムだっ!?

*「アトムの最後」のラストについての言及があります

「アトムの最後」という短編があります。(元々は「鉄腕アトム」というタイトルでした。)
「月刊別冊少年マガジン」の1970年7月号に「150ページ3大ベストシリーズ その後のまんがスター」ということで「伊賀の影丸」「ゲゲゲの鬼太郎」とともに描かれた作品です。

「鉄腕アトム」と言っても、アトムは少ししか登場しません。
舞台は2055年、主人公は鉄皮丈夫(てつかわたけお)という少年です。
丈夫は、隣に越してきたジュリーという少女と「首つりごっこ」をして遊びます。ジュリーはぐったりとなってしまい、ジュリーの母親は猛烈に怒りますが、丈夫も丈夫の両親も相手にしません。

その夜、ジュリーが行方不明になり大人たちは捜索に出かけます。丈夫は家にいるように言われますがこっそり出かけます。そして森の中で現れた人影に怯え持っていた銃で撃ってしまいます。撃った相手はジュリーの母親で、その正体はロボットでした。
ところが次の日、ジュリーの母親は何事もなかったかのように丈夫の家に現れたのです。

やがて10年が過ぎ、丈夫とジュリーは愛し合うようになります。
しかし丈夫の両親は、二人の交際を許さず驚くべき事実を語りだします。

実は、人類は放射能と公害で人口が極端に少なくなり、ロボットが支配する世の中になっていたのです。丈夫の両親もロボットでした。
人間の精子と卵子が貯蔵されている場所があり、ロボットが申し込んで配給して貰っています。そしてロボットの親は、人間をできるだけ狂暴になるように育てて、闘技場で決闘させて楽しんでいるのです。丈夫たちもそのようにして誕生し、育てられたのでした。                   
 

決闘の場に連れ出された丈夫は闘技場から逃げ出し、ジュリーを連れて逃避行をします。
途中でロボット博物館に立ち寄り、停止中だったアトムにエネルギーを注入し助けを求めます。アトムは二人に協力することを約束します。

しかし、アトムによってジュリーが実はロボットであることが明らかにされます。「首吊りごっこ」でジュリーは死んでいて、代わりにロボットと入れ替わっていたのです。
アトムはロボットの追手たちと戦いに行きます。(はっきりと描写はされていませんが、アトムは破壊されたのでしょう。)

残された丈夫は、ジュリーがロボットであることを知って、ショックを受け殺してしまいます。

丈夫は追撃隊に包囲されます。「お、おれは二度ジュリーを殺したんだぞ。さあっ、どうにでもしろっ。かかって来いよっ。」そういいながら銃を連射する丈夫に、ロボットたちは容赦なく砲撃を加え殺してしまいます。崖の上で焼け焦げになった丈夫の死体。「2055年」と出て終わりとなります。

何とも陰惨で、まるで救いのない内容です。
ストーリーも一貫せず破綻しています。そもそもアトムが登場する必然性に無理があるように思えます。そしてジュリーはなぜ二度も死ななければならなかったのでしょう。

しかしこの作品は、実は「鉄腕アトム」そのものをなぞった物語なのではないでしょうか。ご承知のように、アトムは死んでしまった天馬飛雄少年の身代わりに造られたロボットです。

1、最初に、人間の子供(天馬飛雄・ジュリー)が死にます。
2、次に、人間の子供の代わりにロボット(アトム・ロボットのジュリー)が造られます。
3、その世界ではロボット同士(人間同士)が戦っています。
4、身代わりのロボット(アトム・ジュリー)が破壊されます。(アトムは「青騎士」等で何度か死んでいます)

「アトムの最後」では、ロボットが人間同士に戦いをさせますが、「鉄腕アトム」の連載ではロボット同士の戦いが繰り返されました。

これは読者・出版社の意向による所がつよいでしょう。

実は手塚治虫先生は繰り返されるこの「ロボット同士の戦い」に嫌気が差していたようで、「若返りガス」という作品のラストでは、ケン一が「諸君ここで誓おう。ロボットにもう決していたずらや、むだな決闘をさせないこと。」と呼びかけています。

この「若返りガス」が描かれたのは1955年でした。つまり「鉄腕アトムの最後」は、ちょうどその100年後の物語という設定になっています。       


「植物人間」という短編があります。数ある単行本の中で「決定版」ともされている朝日ソノラマ版の第1巻に掲載されており、格闘シーンもありますが、アトムが植物になった宇宙人をそっと守ってやっているという、とても詩情あふれる作品です。手塚先生自身は「この話はわりと好きなんです」と書いています。手塚先生がそのようにアトムの個別の作品について言及するのは、珍しい事だと思います。

一方、読者に一番人気があった「地上最大のロボット」では、ロボット同士の戦いが次から次へと繰り広げられますが、先生は「(敵役である)プルートウを悪役にしきれなかった」(朝日ソノラマ版単行本解説マンガ)
「史上最大のロボット(地上最大のロボット)あたりからぜんぜん読む気がしない」(「珈琲と紅茶で深夜まで」)と語っています。
手塚先生が、「ロボット同士の戦いの物語」を何度も繰り返し描かされることを嫌っていたのは間違いないと思います。

「アトムの最後」について手塚先生は、「これを描いた時代は急進的な学生運動がはやり、マンガや劇画の内容も、暗くてニヒルなものが多く、それらの影響を多分に受けた作品です。いつ読み返しても、陰惨で、いやーな気分がします。」と書いています。                         

「鉄腕アトムの最後」を描いた頃、手塚先生自身が厳しい状況にありました。
少年誌を自分の主戦場と考えていましたが、この時期には古いタイプの漫画家とされて、人気も下降していたのです。

そこへ出版社から「なつメロマンガ特集のひとつ(手塚先生自身の表現)」として「アトム」を描いて欲しいという仕事の依頼が来ます。
手塚先生としては「やれやれ」という気分だったでしょう。そこで敢えてアトムの世界観をひっくり返した作品・それでいながらアトムの物語の本質をついた作品を劇画調で描いたのではないでしょうか。

私たちは、ロボット同士を戦わせることにはそれほど抵抗はないでしょう。いやむしろ、それを楽しんでいるのではないでしょうか。
ところが、ロボットが人間同士を戦わせるという設定には強い拒否感を感じます。   

手塚先生は「アトムの最後」で、ロボットと人間の立場を逆転させて、皮肉な調子(というか、半分破れ被れな気持ち)で「僕が描いてきたアトムは、実はこのような作品でした。これが皆さんが読んでいたアトムです。」と言っているように思えます。
先述したように、この作品の最初の題名は「アトムの最後」ではなく「鉄腕アトム」でした。

手塚先生は、アトムに対して複雑な気持ちを抱き続けていたようです。
「アトムは実のところ、初期の2、3年の間は描いていて嬉しかったのですが、あとは惰性の産物でした。ことに虫プロでアニメーション化してからは怪物化したアトムを描いて、むしろ苦痛でした。」(手塚治虫全集20巻)と語っています。
初期の2、3年以降はロボット同士の戦いが描かれることが増えていきます。そして、アニメ化でその傾向が顕著になりました。

最後のシーンで、崖の上で焼け焦げになった丈夫の死体は、手塚先生自身なのではないでしょうか。手塚治虫先生は、「二度ジュリーを殺した」鉄皮丈夫と同じように、最初に人間の子供(天馬飛雄)を殺し、次にその身代わりのロボット(アトム)を破壊しています。手塚先生は、飛雄とアトムを殺してしまった自分自身を殺したのだと思えてなりません。

それ程までに、この作品を描いた頃の手塚先生の気持ちは荒んでしまっていたのではないでしょうか。「いつ読み返しても、陰惨で、いやーな気分がします。」というのも当然でしょう。

しかし手塚先生は、この後、見事にアトムを復活させます。
それも、「火の鳥 復活編」「ブラックジャック」「三つ目がとおる」「鉄腕アトム」というアクロバット的なリレーをすることによって。


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