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どうして罰則がなくても法やルールは守られるべきなのか?

未来を考えるために 第三回

 今回は、どうして法やルールは守られるべきなのかについて、考えてみようと思います。

○「目には目を」と同じ理屈で「死には死を」は可能なのか?

 まず、法制度に頼らない単純な報復として、「目には目を」の理屈で「死には死を」が成立しうるのかについて、考えてみようと思います。

 先にお断りしておきますが、ここで言おうとしているのは、「直感的な考えってかなり雑なこともあるよね」ということです。死刑制度の是非を論じるつもりはないですし、被告も遺族もどちらをも擁護したり非難したりする意図はありません。

・訴人は誰か?

 これは、日本では絶対神を含む教えを信仰している人は多くなく、また、日本語は主語が省略されることも多いので意識されにくいことです。「死には死を」を成立させるためには、上から見て裁く絶対神のような存在が行うか、「私と同じように被告にも死を」という本人による訴えが必要となります。
 絶対神のような存在が「死には死を」のルールに基づいて行う裁きであるなら、例外は一切認められることはないと想定した方が無難でしょう。不慮の事故だろうが不運な結果だろうが、誰かが誰かを死なせてしまったのなら、情状酌量などの入り込む余地などなく全て死刑です。およそとてもヒトが生きていかれる社会とはいえないものとなりそうです。

 もう一つの、本人による訴えのためには、死者の意思を正確に伝達できる霊能力者のような存在が必要とされます。生者間の伝達でさえ覚束ないのがヒトなのに、死者の言葉を正確に伝達などできるのでしょうか? 甚だ疑問です。

 ちなみに国(社会)が定める法制度というのは、「この国(社会)は、どのように振る舞う者を適法と(違法と)認定するか」というものなのではないかと思われます。なので、その制度下での訴人(主語)は、「この国(社会)」になるものと思われます。古来、私人が断罪して民衆が喝采する話は後を絶ちませんが、それがアウトロー扱いされてしまうのは、ここに根拠があるような気がします。

・「同じ苦しみを」は可能なのか?

 遺族の方が「同じ苦しみを」といった訴えをすることがあります。遺された者がそのように訴えるのは無理のない話です。では、これを訴人と捉えたらどうなるのでしょうか?
 遺族が「同じ苦しみを」と訴えた場合、まず、誰と同じ苦しみなのか、という問題が起こります。

 「死者と同じ苦しみ」と解釈した場合、死者がどれくらい苦しんだのかは計測不可能という問題が生じます。上記したのと同様、霊能力者が必要となってしまう問題です。そこをクリアできたとしても、まだ問題はあります。状況を再現することの困難です。どういうことかと言うと、例えば通り魔のような、全く想定していなかった状況だった場合、被告を一度無罪として釈放するなどして、自分が殺害されると想定していない状況をつくらないと、再現できないのです。
 もちろん、いわゆる「無敵の人」の問題もあります。自分の人生を放擲してしまった者ならば、人生を謳歌し、未来を望むような状況をつくってから執行しなければ再現とはいえないでしょう。自身に価値を見出していないのなら、そのような被告に刑をすることそのものが、「同じ苦しみ」にはならないことになってしまいます。

 では、実際に苦しんでいるのがわかる「遺族と同じ苦しみ」と解釈したら、どうなるでしょうか。この場合は、いわゆる「無敵の人」と同様で、被告本人を死刑にするのは必ずしも有効とは言えなくなってしまいます。遺族と同様に、大切な者をなくした苦しみを味わいながら生き続けなければ「同じ苦しみ」とは言えないからです。被告のために無辜の人が犠牲になることになってしまいます。また、被告の大切な人が権力者などだったら新たな「無敵の人」が生まれてしまいそうです。

 といったように、報復とか復讐とかは単純なものと思われがちですが、その単純さはもしかしたら、ただ判断が粗雑なだけな面もあるのかもしれません。

○法やルールって何ですか? その一

 では、どうして法やルールは守られるべきものとして存在できるのでしょう?
 それは、主語の問題のところで書きましたが、「この国(社会)は、どのように振る舞う者を適法と(違法と)認定するか」という、所属する社会の意思表示としてあるからなのではないかと思われます。

 ヒトは群れ(社会)を形成する生き物です。しかもいわゆる「家族」以外とも群れをつくります(家族や家族認定した者しか認めない蜂の巣みたいな群れもしばしばつくりますが)。群れ同士が交流を持つようになれば、参加した群れ全てを含む集団もやはり一つの群れ(社会)と見なされます。ということは、社会というのは、ヒトの内輪の世界と外部の世界との間の、何重にも引かれている境界線のようなものなのではないかと思われます。
 一例として、宗教を挙げます。宗教は、「ある教えを信じる者達の集団」であり、それは「この教えを信じる我々は、それに基づいてこのように振る舞う者達でありましょう」という戒律によって、内輪(社会)を形成します。「どうして「地獄への道は善意で敷き詰められている」のか?」で宗教を社会規定と表現したのは、このことを指します。
 この、「我々は、それに基づいてこのように振る舞う者達でありましょう」が、法治社会では法律にあたる、と考えると、法律というものが押し付けられたり勝手に決まっていることではなく、自分に関わりのあることとして感じやすくなるのではないでしょうか? 法治国家の日本なら、「この日本国に生きる我々は、このように振る舞う者達でありましょう」ということです。もっとも、そんなことは憲法の前文に書いてあることであり、そして、ほとんど省みられないことなのですけど。

○常に遅れてあるもの

 ならば、定められてしまった法は常に守られるべきものとしてあるのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。内輪の世界も外部の世界も一定ではない以上、それに合わせて変えられるべきです。しかしそれは同時に、「現状に合ってないから」という理由だけで変えられるべきものでもないと筆者は考えます。
 なぜなら、「どうして民主主義が大事と言われるのか」「考えることと感じることの限界」などでも書きましたが、ヒトの認識も、社会の形成も、「気がついたらこうなっていた」という事後的なものだからです。それならば、法やルールも現状とずれているのは、ある意味当たり前のこととなります。つまり、法やルールを現状と寸分違わず一致させる、ということ自体が、原理的に不可能なことなのです。

○法やルールって何ですか? その二

 では、どうしてそんな法やルールが守られるべきものとして存在できるのでしょう?
 ここに「社会の意思表示」という表現を用いたもう一つの理由があります。それは、その常に遅れて存在している法やルールに対してどのように振る舞うのか、という社会の人々の側の問題です。守るのか、無視するのか、他人がいるところでだけ守るのか、隙間をつくのか……、そういった人々の対応によって、それは意味を成したり成さなかったりしてしまうものなのです。イヤな言い方をしますが、罰則化や厳罰化が議論されるのは、罰則になったり厳罰が課されたりしないと守らない人々の振る舞いがそうさせているのです。「罰則がなければ守らなくてもいい」という行動が支配的になっている社会、ということです。

 つまり、法やルールというものは、それ自体だけで意味を成すものではなく、それに対して人々がどのように振る舞うのか、も含んだ上で始めて意味を成す、基準・アンカーなのです。

○法やルールって何ですか? その三

 では、どうして法やルールというアンカーが必要で、しかも不完全な形でしか存在できないのでしょう? 完璧な法やルールは定められないものなのでしょうか?
 はっきり言ってしまえば、完璧な法も完璧に近い法もありえません。なぜなら、ヒトの内輪の世界も外部の世界も一定ではありえないからです。社会状況も人間関係も資源や気象なども常に一定であるものは一つとしてなく、ヒトの生はそうした流動性の上にしかありません。その流動性の中で、今現在の適応的な振る舞いを考えるためには、基準・アンカーとなるものが必要とされるのです。生き残るためには何でもやらなくてはいけない社会と、言われるままにしていれば食うに困らない社会では、適応的な振る舞いは全く違いますから。また、この例のように、同じ社会にいるように見えても人によって違うこともありえるというのが、現代は大変わかりづらく、面倒なところとも言えそうです。
 あと、変更不要の確定した事実は、実は法やルールにはなりません。「みんないつかは死にましょう」なんて、「言われんでもわかっとるし、そうなるわ!!」ってなりますよね?

 哲学っぽい言い方でまとめれば、ヒトの生自体が過程の存在であり、ヒトの意識はその過程のためにあり、その意識によってつくられる社会、その社会のための法やルールはそういった過程のためにあるものであって、どこかに結果(到達点)があったりそれを目指したりするような類のものではないように思われます、ということです。

○結論

ということで、
「どうして罰則がなくても法やルールは守られるべきなのか?」
への現時点での私の答えは、
「守るべきと決まっているわけではない。だけど、守る(あるいは守らない)という行為自体も法やル-ルに含まれる社会的な意思表示であり、それは未来へ繋がっているからちゃんと考えましょう」
でした。

主な参考文献

 今回もこれまでの記事の総括的な内容ですので、新たな参考文献はありません。前回の最後に関連の過去記事を挙げてありますので、そちらをご覧ください。

 次回は、才能というものについて、「氏か育ちか」というお約束とからめて考えてみようと思います。
「才能ってどんなもの?」
というタイトルでやろうと思います。

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