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差別と差別化 ものさしの使い方
昨今では多種多様な価値観もとい、ものさしが溢れかえっている。
「外見至上主義」と「内面至上主義」
「ミニマリスト」と「マキシマリスト」と「シンプリスト」
「フェミニズム」と「反フェミニズム」
「ヴィーガン」と「ベジタリアン」と「ミータリアン」
などなど
ことインターネットが発達してからというもの、上記に記したものを含め、多くの価値観が溢れかえっているのが現状である。
そして、それらの価値観の善し悪しはしばしばネット上での論争の種となり、やがて炎上することも少なくない。SNSを利用している方はよく理解できると思う。
では、現在の多様化や個性が重んじられることを尊重しようとする社会の中で、何故このようないざこざが起こってしまうのか?
私はその原因の一つに「差別」と「差別化」の使い分けの問題があると思う。
ここで差別の意味を大辞林より引用してみると、
差別
(1)ある基準に基づいて,差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また,その違い。「いづれを択ぶとも,さしたる―なし/十和田湖(桂月)」
(2)偏見や先入観などをもとに,特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また,その扱い。「人種―」「―待遇」
(3)〔仏〕「しゃべつ(差別)」に同じ。
とある。
概ね現代の感覚で当てはめるとするならば、
差別…扱いに違いをつけること
差別化…差をつけて区別すること
といった意味合いで扱われていると思う。
では、一見同じかのように思える二つの何が決定的に違うのか。
それは、自分のものさしを「内に留めるか」、「外に振りかざすか」であると思う。
近場で炎上した事例を例にあげると、
あるプロゲーマーが生配信中に、異性の容姿の条件を挙げそれに満たない者は「人権がない」と発言し、炎上、のちに契約解除をされたということがあった。
この「人権がない」という言葉は、そのままの意味を意図したのではなく一種のスラングとして業界で使われていたようで、本人にはあまり悪気がなかったのかもしれない。
しかし、それを業界用語と知らない多数は差別だとして声を挙げ、やがて大騒動に発展したわけである。
また、他例として古来より言われているのが、「人は外見か内面か」問題である。
これは簡潔にまとめてしまおう。
よく挙げられる言説としては、「人を外見で判断するのは持たざる者への差別だ、人間性の否定だ」というものであるが、一見正しいようにも思えてこれも結局は詭弁である。
内面が一番大切で外見を考慮しないというのなら、好きで人に好まれる顔に生まれてきたわけではない方々はどうなってしまうのか?一生懸命美しく、カッコよくなろうと努力している人はどうなってしまうのか?
これだって一つの差別だ。
大事なのは「差別」ではなく「差別化」
自分とは異なるものや価値観があることを認めること。尊重し合うこと。自分のものさしを他人に押し付けないこと。
この人は外見は地味なのかもしれない。でもこんなことが出来て、こんなことを知っている。人を思いやる心がある。
この人は外見がいいのかもしれない。それでもそれを鼻にかけず自他共に厳しく生きてゆく強かさがある。
この人が外見を尊重するのはそれに伴う人生の苦難を知っているからだ。
この人が内面を尊重するのは思いやりを重視しているからだ。など
もちろん上に挙げた例に反論があるかもしれない。
それはそれでいい。それはあなたが人生で築き上げてきた大切な価値観、ものさしなのだから。
ただ、あなたにもあなたのものさしがあるように、他の人もその人が築き上げてきたものさしがある。
それを真っ向から否定し自分のものさしを振りかざすことは、その人の人生を否定するのとそう変わらないことなのではないでしょうか?
人に価値観がある限り差別化は無くなることがない。
それならばせめて差別するのではなく認識をする。自分の考えを押し付けるのではなく共有する。
そういった姿勢が全世界と繋がることができる昨今において、大切な感性の一つなのではないでしょうか?
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