土田マア

思ったことを書いていきます。 共感は得られないかもしれない。 でも気にしません。

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最近の記事

存在しない「何者か」になる必要はない

人の注目を集めるために「何者か」になろうとする人がいる。 私たちは「自分」以外にはなれない。 無理をして「何者か」を演じてもそのうち破綻する。 それよりは周りに見せたい自分になるための努力をすべきだろう。 見た目の問題なら髪型や服装、化粧について学ぶとか。 話し方ならば滑舌のトレーニングをするなど。 様々あるはずだ。 重要なのは自分がどう見られたいのかを自覚することと、そういう人物になるためにはどのようなスキルが必要なのかを考えること。 自分にないものをあるように見せ

    • 将棋倒しと無関心

      アイドルのイベントで将棋倒しが起こり、大惨事は免れたものの、何事もなかったかのようにヘラヘラと笑い、騒ぎ続けるスタッフや観客達が批判されている。 確かにこの人達の認識の甘さは問題だが、「人が死ぬかもしれない」という可能性に考えが至らない背景にある世相の方が問題ではないだろうか。 既存のメディアはテレビも新聞も衰退し、自分で見たいニュースのみを選んで見ることのできる時代。 必然的に韓国のソウルで起こった将棋倒し事故のような暗いニュースは嫌厭され、明るいニュースばかり閲覧され

      • 何かを「笑う」のはよくない

        誰かをバカにしたり何かをコケにしたり。 あなたにとっては面白いのかもしれない。 でもそれは、こき下ろされた人や物の側に共感する人にとっては不愉快なもの。 そんなことをしなくても楽しい話題は楽しいし、そういう話がなければ無理に笑わなくてもいい。 天気の話をしてもいいし、相手の話を聞く側にまわってもいい。 特に楽しい部分のない話でも人との繋がりは作れる。 誰かと良好な人間関係を築きたいなら相手にとって不愉快な話をしない方が大切だ。

        • noteを使う上で自分に課していること

          頭の中身をアウトプットする練習としてnoteに毎日投稿しようと考えて約半月で一日途切れてしまった。 それはいいとして。 最初に書いた通り、私は考えを文章に落とし込むことを目的としてnoteを使っている。 だから、見出しの設定やフォントサイズの変更、画像の挿入などは行わない。 視覚的にページが見やすくなるとは思うが、それでは読みやすい文章が書けたことにはならない。 使ってもいいものとして文字と句読点以外では「鉤括弧」やクエスチョンマークしか念頭に置いていない。 結果的

        存在しない「何者か」になる必要はない

          情報商材という落とし穴

          割と定期的に問題になるインターネット上の「情報商材」というもの。 「楽してお金を稼ぐ方法」 「〇〇になるためにはまずこれをしろ」 「今日からモテモテ10の秘密」 適当に考えたが概ねこのような感じだろう。 実際にこれの何が問題なのか。 お金を払って買ったのに全く役に立たない、もしくは金額分の価値がないことだろう。 そもそもこれを販売している人が「自称その道のプロ」である可能性がある。 また、肩書きが本物でも「なんとなく」で成功を繰り返し確固たる方法論を持ち合わせていない

          情報商材という落とし穴

          優しさは回るもの

          人が困っているとついつい声をかけたくなる。 「どうしましたか?何か手伝えますか?」 それは別に相手のためだけではない。 そのまま立ち去ってしまうと、後から「あの人はどうなっただろうか」と考えてしまうからだ。 話を聞いて力になれそうなら力を貸す、そうでなくても事情がわかればこちらも悶々と後になって考え込むこともない。 だから困ったときは周りの人の助けを借りていい。 ずっと暗い顔をして心配をかけるよりは相談してみよう。 それが相手のためにもなるはずだ。 そして、助けてもら

          優しさは回るもの

          基本的に楽しいことは少ない

          楽しいことばかりやって過ごせたら。 それは確かに理想だろう。 だが、私達は日々暮らしていかなければならない。 仕事に学業に、その他諸々。 それらを受動的に「やらされている」と考えているのならばその時間は苦痛かもしれない。 だが、それらは生活していく上で不可欠なものだ。 それそのものを無理に楽しめとは言わない。 考え方を変えてみてはどうだろうか。 例えば仕事や学業の中で達成可能な小さな目標を定めて定期的に達成感を得るであるとか。 達成できなければ次はやり方を工夫して達

          基本的に楽しいことは少ない

          自分の中の「ものさし」

          みなさんは自分の中にはっきりとした価値観を持っているだろうか。 私は常に自分なりの基準を持ちたいと思っている。 これがないと場面ごとに違うことを言ってしまったりして周囲を混乱させるかもしれない。 私はそうはなりたくない。 とは言っても、周囲に一方的に価値観を押し付けるのではなく、まずは自分の行動を律するために使うことが肝要だ。 その基準から自分がはずれていながら周囲に遵守を強要するダブルスタンダードは反感を買う。 だからまずは自分なりに「こうありたい」と思う人物になれるよ

          自分の中の「ものさし」

          人の死を利用して論を展開する人達

          批判を受けていた有名人が自殺すると「こうなることがわからなかったのか」としたり顔で説教する人達がどこからともなく大勢現れる。 確かに行きすぎた批判や人格否定をする人達には問題があると思う。 自殺教唆に問えそうなパターンもあるだろう。 しかし、誰かの自殺に便乗してこのような声を上げる人達も他人の死をダシにつかって自分の言いたいことを言っている冒涜者に過ぎないのではないか。 当の有名人が亡くなるまで影も形もなかった彼らは本当にその人の死を悼んでいるのだろうか。 有名人の生前

          人の死を利用して論を展開する人達

          生まれや経歴の優劣ではなく

          今、あなたが何を考え、どう行動するのか。 それによって人生は変わることがあります。 やらない理由探しをしている人。 少しのことですぐ不幸自慢を始める人。 周りの悪口ばかり言っている人。 このような人に何かを任せたいと思いますか? やらない理由探しをしている人は手抜きをしそうですし、不幸自慢をする人は責任が重くなったことを逆恨みするかもしれません。 周りの悪口ばかり言っている人は関わるだけで陰口をたたかれそうです。 これ以外にも周りから信頼されない言動は様々あります。

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          褒め言葉は毒

          人から褒められると嬉しい。 それは当然だ。 だが、それを鵜呑みにしすぎると万能感が満ち溢れて、ともすれば天狗になってしまう。 なにも褒め言葉に言い返せと言っているわけではない。 褒め言葉は褒め言葉としてありがたく受け取って、その上で自分の更なる向上のために常に改善点を探す。 探求者としての姿勢が大切だと思っている。 また、それができない人をむやみに褒めて増長させてもいけないと思う。 褒められる場合も褒める場合も薬にもなれば毒にもなる難しいもの。 それが褒め言葉というものだ。

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          誰かの助けを借りるということ

          自分の知識不足や経験不足で壁にぶつかること。 多かれ少なかれあることだと思います。 そんなとき「ああでもない、こうでもない」と、できもしないのに試行錯誤するよりも先達の力をお借りするのが早いし、勉強にもなるでしょう。 ですが、誰かの助けを借りたとき、全く動かずに指を咥えて見ているだけでいいのでしょうか。 他人事なら手を出しては邪魔になるということもあるでしょう。 しかし、この場合は「あなたが抱える案件」であり、相手は「手を貸しているだけ」の立場です。 あなたが何もせずに

          誰かの助けを借りるということ

          5類に移行して

          コロナ禍で外に出ない習慣が身についてしまった。 何もせず、家の中でダラダラとネットを見て過ごすうちに日曜日が終わっていく。 家の中でできる中身のあることはもちろんある。 資格の勉強であるとか、読書であるとか。 しかしそれも気持ちが外に向いていないとできないことだ。 気持ちが外へ、将来へ向けて動いていないから、体も生産性のあることに向けて動いてくれない。 いっそ休日は思いきって外で1日過ごすようにした方がいいのかもしれない。 友達を誘って何かをやってもいいし、インドア派

          5類に移行して

          自分らしさとは

          個性とは唯一無二の、その人にしかないものだろうか。 私はそうは思わない。 例えば、普通の人と言われて思い浮かぶあなたの周囲の何人かについて想像して欲しい。 その人達はコピー&ペーストしたように全く同じだろうか? おそらく違うはずだ。 癖の強くない人でも必ずばらつきがある。 それは個性と呼べるのではないだろうか。 他人と共通したものばかりで構成されていても、その配分であったり組み合わせであったり、何かしら違う部分があるはずだ。 無理して独自色を出す必要なんてない。

          自分らしさとは

          弱者であるということを免罪符にする人

          この世の中には「気を遣われて当然。なぜなら自分は可哀想な人だから」という思考回路の人がいる。 そういう人にはよく考えてもらいたい。 自分のできる範囲で精一杯やったのか。 最初から他力本願ではないのか。 他人に無償の愛なんてものを期待しているならそれは間違っている。 一時的には得られるかもしれない。 だが、それがずっと続けば与える側は疲弊していく。 与えられた分、その相手に何かを返す姿勢を示す必要がある。 相手から与えられたものと釣り合わなくてもいい。 相手を気遣う姿勢を

          弱者であるということを免罪符にする人

          ナマケるということ

          やりたくないことをやらない。 それは個人の自由だ。 でも、「あの人に頼んだらちゃんとやってくれるかわからない」と思われてしまう。 そこはセットになっている。 怠けることと認められること。 両立はしない。 それでも、たまたま普段の行動を見ていない人達にバズることはあるかもしれない。 しかし、その人気を維持するためには努力が必要になる。 やりたくないことから逃げてもいい。 だが、その結果として色々言われたり周囲の人からあまり良く思われないことがあるのは覚悟しよう。

          ナマケるということ