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AIに出来ることが増えてきて、人として思うこと

#日経COMEMO #NIKKEI

 今更ながら、すごい時代になったものだと思う。誰もが一度は考えたことのあるような、空想上の技術だったものが、今ものすごいスピードで実現されようとしている感じがする。

 今話題のChat GPT-4について、ちゃんと理解はできていないが、質問や命令を入力することで、AIが自動的に回答を導き出してくれるものらしい。まだ発展途上の技術で、回答の正確性に難ありだったり、入力する言語によって精度に差があったりするようだが、それでもコマンドのような定型言語ではなく、口語的なふわっとした入力でもコンピュータが認識して処理してそれらしいアウトプットができるようになった、というのは一般人の我々が認識できる以上に、技術的にはすごいことなんだと思う。

(個人的にはこの動画を見て何となくのイメージはつかむことができた)

 冒頭の記事を読む限り、今時点でテキストの回答だけでなく、分析のグラフや資料で使うようなパワポのスライドも、「こんなの作って」と入力すれば、たたき台になりそうなものなら一瞬で作ることができそうなところまで来ている。
 これって想像以上に人の仕事に与える影響がでかいのではないか。オーダー通りに綺麗に資料を作る仕事が、遅かれ早かれ人の仕事ではなくなる可能性があるってことだと思う。
 例えば、何か資料を作る工程をざっくり分けるなら、こんな感じだろう。

  1. どんな資料が望ましいか、コンセプトやメッセージを考える

  2. コンセプトやメッセージに照らしてどんなビジュアルがいいかを考える

  3. 考えに沿って資料を作る

  4. 作った資料を評価し、修正したりOKしたりする

 このうち、少なくとも③の工程は、①のコンセプトや②のイメージを入力すれば、AIがいくつもサンプルを作ってくれるようになるということだろう。もしかしたら①のコンセプトだけで、②③まで良い感じにAIが作ってくれるようになるかもしれない。というか、目指している方向はそっちな気がする。要は、言われたとおりに仕事をこなす作業屋は、遅かれ早かれ求められる場面が減っていくかもしれない、ということか。

 Chat GPTに限らず、「生成AI」と呼ばれている技術は、広範囲な領域で人間の活動に食い込み始めている。有名なのは「stable diffusion」のようなAIイラストメーカーであろう。既存のイラストをAIに学習させておいて、特定のタグを入力することでイラストを自動生成する技術ということらしい。

 こちらの方は当事者であるイラストレーターやそのファンと開発者も含め、世界中で様々な議論を巻き起こしている。学習に無断でイラストを使うことの著作権侵害を問う声もあれば、そもそもAIが作るイラストは文化や芸術の類ではないと断ずる声も聞かれる。客観的に見てその主張にどこまで正当性があるのかについては何も言えないが、はたからは何となく仕事上の立場と感情的な不快感が混ざり合った主張が展開されているように見える。
 
 私個人としては、芸術的でセンスのなせる業と思われていた行為の多くが、解きほぐしていくと理論とパターンからなる要素が大きく、人を超えた計算能力があれば再現することも理屈の上では可能だったということか、という感想である(日本人はカノン進行が好き、というのを聞いたことはないだろうか。音楽もよくあるコード進行、その上に乗せる音階、好まれるリズムパターンがあるもの、ということだろう)

 これまで人が行っていたことについて、ここまでAIで再現可能になると、機会と人に差なんてないような気さえしてくる。今のAIがチューリングテストをやれば、人よりよっぽど気の利いた会話ができるのかもしれない。
我々人間はAIとどんな関係を築いていくのだろう。考えられるのは次のようなパターンだろうか。

  1. ラッダイト運動のごとく、AIの発展を一切認めない

  2. AIと人が同じようなことをしつつ、人がやったということが一つの要素になる

  3. AIができること、人ができることを分担して共存する

  4. AIに全部丸投げし、人は全く新しい活動を始める

 個人的には、③の方向でうまく付き合っていくのではと思っている。マクロな視点でいうとシンプルに技術や理論が発展していくのは人々の知識財産が拡大していくことであり、この流れを意図的に止めるべきではないと思う。それにミクロな視点でいうなら、作業レベルのこと、手を動かすことから解放されるのは、私の立場でいえば単純にありがたい。

 人とAIがそれぞれ役割を持ち共存していくのだとしたら、人のもとに残る営みは何か。月並みだがそれは思考すること、創意を発揮することにあると思う。AIが手を動かしてくれるなら、人間の価値は、AIをいかに動かすか、そしてAIが出した結果をいかに評価するか、にシフトしていくだろう。人が何か目的や必要性をもってAIを使う以上、指示と判断の部分は最後まで人のものだ。ともすると、技術が社会を決定するような気がするが、忘れてはならないのは機械の背景には必ず何かしら意思をもってそれを使う人の存在があるということだ。
 つまるところ、我々は今後一層考える力、想像力を鍛えなければならないということだと思う。思考力を鍛え上げなければ、すぐに自分の立場をAIに挿げ替えられるという、中々過酷な将来になりそうだということでもあると思うのだ。

 余談だが、④は、ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で論じた、データ全能の時代のあり様と言えそうだ。この場合、「思考」や「判断」さえも、AIの計算で導かれた結果に人間が従う構図だ。この未来もあり得ないとは言い切れないかもしれない。思考や判断にはとてもエネルギーを使うし、必ずしもそれが幸福につながるとは限らない。もし自分以外の存在が自分以上に正確に自分のことを理解し判断してくれるなら、楽な方に乗っかる人も案外いるんではないか、というのが個人的な感覚である。


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