教科書に載らない鎌倉幕府 〜recycle articles 5〜

日本史史料研究会編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』について紹介したい。

以下の文章は、この本に全て分かりやすく書かれている内容である。

大河ドラマのその向こうが知れる。

誰も知らない鎌倉幕府


「鎌倉幕府」とは何ですか?、という質問を最近耳にするようになった。

本質を問う質問ではなく、単に知らない、ということのようなので、その時代が専門ではなかったけれども、高校受験で知りうる範囲で教えることにしている。

鎌倉幕府とは、源頼朝によって創始された武家政権、である。1192年から1333年の間、続いたとされる。源頼朝は神奈川県の「鎌倉」を政権の所在地にしたので「鎌倉幕府」と呼ばれる。

しかし、最近では、鎌倉幕府の成立の年号について、様々な議論が出ている。

⓪ 1180年 頼朝が挙兵し、10月に鎌倉に入った時点

① 1183年 「平氏の都落ちのあと、京都の後白河法皇と交渉して、東海・東山両道の東国の支配権を得た」時点

② 1185年 「平氏の滅亡後」に「法皇が義経の頼朝追討を命じる」と、「頼朝は軍勢を京都に送って法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当たり5升の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した」時点

③ 1190年 「逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼ」したのち、「念願の上洛が実現して右近衛大将とな」った時点

④ 1192年 「後白河法皇の死後」に、「征夷大将軍に任ぜられた」時点

何せ、長く支配層の代表であった朝廷から政権を奪取するという前代未聞の事柄なので、最初の将軍であるところの源頼朝という人は、苦労したのであろう。今までは④が開始時点だったが、最近では②が実質的な幕府権力の成立とみる見方が多いようだ。

確かに、徴税権、軍事力の掌握、人事権、という三つが揃うのは1185年なので、私もそれがふさわしいかな、と思う。ちなみに、最近では、源頼朝の肖像と言われてきた絵も別人と言われているし、晩年の頼朝にも不可解な点が多いし、スタートがそもそも曖昧になりつつある。

1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府、と暗記できた時代は幸いであろう。ちなみに、1192年には、頼朝の妻の北条政子が次男の源実朝を産んでいる。頼朝46歳。私の2こ下。

いずれにしても、最初から、なんだかぼやけている政権である。

知られざる将軍たち


鎌倉幕府が何となく違和感を抱かれるのは、政権担当者が途中から、将軍じゃなくなるからだろう。第一代将軍「源頼朝」、第二代将軍「源頼家」、第三代将軍「源実朝」…で、教科書からは源姓の将軍の記載は終わってしまう。

でも、実際には、将軍は、1333年までいた。

①源頼朝

②源頼家

③源実朝

④九条頼経

⑤九条頼嗣

⑥宗尊親王

⑦惟康親王

⑧久明親王

⑨守邦親王

実に9人もいたのである。しかし、すでにして第二代将軍である源頼家のころから、執権北条氏の傀儡であった、と言ってしまうと語弊があるが、教科書的には、それで済んでしまう。あとは、執権北条氏一族の専制的な政権であったというのが、鎌倉幕府の実態だったのである。

しかし、この『鎌倉将軍・執権・連署列伝』には、こうした教科書に載らない将軍のことも、掲載されている。それが、まことに興味深いのである。

もちろん、様々に語られる源頼朝は、逆にトピックのみ。頼家、実朝も、トピック中心。それ以降の将軍の記述が面白い。

第四代将軍九条頼経の場合、最初、北条氏は後鳥羽上皇の皇子を実朝の後継として鎌倉に迎えようと画策したのだが拒否されたので、源家と関係の深い九条家から小さな頼経を迎えたというわけである。

結局、鎌倉政権と云えども、朝廷から委託を受けて政務に当たっているという立場があったし、しかも、北条家はあくまで将軍を補佐する第一の家臣に過ぎない。その権力を安定させるために、朝廷、とくに天皇や上皇の血を将軍として補佐するという形をとらなくてはならなかった。ただ、拒否されたので朝廷の中の権力を有する貴族として、九条家が選ばれたのである。

この頼経、確かに幼い時は傀儡であったが、やはり年齢を重ねると将軍という地位の自覚を持つようである。その自覚は、権力闘争の動機となる。執権北条一門の中にも、いわゆる長子の系譜に対して対抗しようという存在がいた。このときは、「御成敗式目」で有名な第三代執権の北条泰時の弟である「名越光時」が、頼経派筆頭として、第5代執権の北条時頼(「鉢の木」の話で有名ですな)を排除しようとするも、露見して破れる。そして、京都に送還される。

こうした知られざる将軍・執権・連署のエピソードが記されていて面白い。

学術的な書き方がなされているので、多少読みづらいかもしれないが。

ころころかわる鎌倉幕府後期の執権


鎌倉幕府は執権北条氏の専制的政権であった。特に、長子の系譜「得宗家」が、権力の中心を担っていた。

① 北条時政

② 北条義時

③ 北条泰時

④ 北条経時

⑤ 北条時頼

⑥ (赤橋長時)

⑦ (北条政村)

⑧ 北条時宗

⑨ 北条貞時

⑩ (北条師時)

⑪ (大仏宗宣)

⑫ (北条熈時)

⑬ (普恩寺基時)

⑭ 北条高時

⑮ (金沢貞顕)

⑯ (赤橋守時)

⑰ (金沢貞将)

ふむふむ、前期中期は順調だが、後半から、得宗家からの執権のヌケが目立つ。一応、執権は17代までいる。ちなみに、教科書では、③北条泰時の「御成敗式目」、⑧北条時宗の「蒙古襲来」(最近は「元寇」とは呼ばないようになっている)、⑨北条貞時の時の「永仁の徳政令」、⑭北条高時の「田楽・闘犬」マニアぶりくらいは書かれているものの、あとは、特には出てこない。

そんな影のうすい執権たちの姿も書かれている。

むかし、戦隊モノ、ライダーモノ、宇宙刑事モノを楽しんでみていたとき、番組の終わり際、正義の味方たちが悪の組織に直接攻め込んでいって、悪の組織の中間管理職たちがそこそこ強い怪人に変化しては、戦い、破れるといった部分にひどく無常観を感じ、わくわくしていたように思われる。あれは武家の戦いのイメージだったのか。

鎌倉幕府の滅亡は、そんな正義の味方が悪の組織に攻め込んで滅ぼすようなニュアンスに感じられていた。しかし、必ずしも、そうではなく、裁判機能が確立するのは、鎌倉末期の第11代執権の大仏宗宣期だし、地方においてはそれなりの安定があったかと思われる。

にもかかわらず、幕府が打倒されるのは、これまた地方農村部における生産力の上昇、それらがもたらした富の増大。配分をめぐる紛争と私的新興勢力である「悪党」の増加といった事柄が、古い経済基盤に基づいた幕府の立脚条件を掘り崩していった、というわけである。単に、政権の腐敗だけが問題ではなかった。

ちなみに、「ボンクラ」と言われる北条高時の治世、1323年に行った父貞時の13回忌に贈られた進物(献上品)の額を現在に換算すると、

銭:4億4500万円
砂金:7億6800万円

そして、このときの鎌倉滞在費は一人およそ「609万円」ほどであると推定され、鎌倉末期の経済的繁栄のほどが知れる。幕府を滅ぼそうとした地方武士団は、こうした経済的繁栄と再配分の不均衡に対して不満を募らせたともいえるだろう。ただ、それはそれとして、こうした地方武士たちも立ち上がることができる程度には、経済的繁栄の余波を受けているのである。

けれども、私は滅びる側になんとも思えぬ感慨を抱く。

第13代執権の普恩寺基時は1301年に六波羅探題北方として上洛した。その間「嘉元の乱」という北条氏内部の権力闘争があり、それによって、時宗死後の北条政権の主要メンバーが、政界を去ったり、死去したりする。それで、北条高時へつなぐために「中継ぎ」執権として起用されたのが、この普恩寺基時であった。執権在任わずか一年。

1316年に北条高時に執権職を譲り、出家する。

その後、1333年まで、普恩寺基時は生きながらえる。

1333年に、新田義貞が挙兵して、鎌倉へ攻め込んでくる。鎌倉に行った人ならわかるが、あそこは三方を山に囲まれて、細い道が通るだけの地形である。だから、休日にはあれほどまでに道路が混むのである。それはともかく、そんな地形だからこそ、攻めにくく、守りやすい。

48歳の引退した基時も、化粧坂の守備に赴く。新田軍は、わが始祖と言われてきたからあまり文句をいいたくないが、とにかく戦下手である。力押ししかできない男である。鎌倉攻略の際も、極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂に隊を三つに分けて攻め込むだけだった。新田義貞本隊は化粧坂から侵入しようとした。

それに対して基時は老齢とはいえ、六波羅探題北方の時期に、各地の悪党を制圧した際の経験が生きたのか、一緒に戦っていた壮年の六波羅探題南方経験者である金沢貞将とのコンビで、新田軍をガンとしてはねつけている。新田軍の中でも、比較的戦上手だった脇屋義助が指揮するも膠着状態に陥るのである。

新田軍は化粧坂を抜けない。

20万の大軍が、それに比べたら少ない北条軍をなかなか制圧しきれないのである。

しかし、稲村ケ崎から新田軍が侵入し、老将基時も、普恩寺に赴き、息子が自害したことを聞き、辞世を詠む。

待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同じく越えて 浮世語らん

『太平記』の演出なのかもしれないが、なんとも、複雑な気持ちになる。

鎌倉幕府末期、得宗専制による体制は確立する。システムが確立してしまうと、仕組みを上手におよぐ人が出世して、仕組みを変えようとする人ははじかれる。仕組みを変えることができない中で、もし、システム形成期だったらそれなりに名君だったかもしれない人がシステムによって、残念な業績しか残せない場合があるということを知って、なんとも悲しい気持ちになるのである。

長くなった。

誰も知らない連署の世界


連署は執権の補佐だが、結構、立派な人物が多いような気がする。

① 北条時房

② 極楽寺重時

③ 北条政村

④ 北条時宗

⑤ 北条政村

⑥ 塩田義政

⑦ 普恩寺業時

⑧ 大仏宣時

⑨ 北条時村

⑩ 大仏宗宣

⑪ 北条熈時

⑫ 金沢貞顕

⑬ 大仏維貞

⑭ 北条茂時

ただ、教科書には出てこない。せいぜい、初代連署の北条時房が、泰時と一緒に六波羅探題をおいたり、ということで名前が出ている。

ぜひ、ここは本書を読んで、その魅力を堪能していただきたい。

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