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王道からドヤ顔で外れてみせる

今日はしっかり起きて授業へ。動物と人間の社会学。

期末のプレゼン内容を決めなくてはならない。動物の出てくることわざ、日本人と魚の関係、民話のなかの動物、などと色々迷ったあげく、「日本人と食肉文化」にすることにした。江戸時代までの馬・牛の死体処理から、食肉文化の輸入、現代の食肉産業などについて。「ある精肉店のはなし」もとりあげようかと思う。(https://www.youtube.com/watch?v=y7Rl-dyh_U0)

よく、自由だと言われる。

ぜんぜん、そうは思わないのだが。今まではそう言われてもいつもだし、と特に気にも留めなかったのだが、先日、あることがきっかけでふと考えた。

私には、素晴らしく聡明な友人がいる。聡明なだけではなく、努力家で、美人だ。そんな彼女に、「みほは自由でいいなあ」と言われて、びっくりしてしまった。だって彼女はしっかり働き、しっかり稼ぎ、顔も広く人生を楽しんでいる、ほしいものを手に入れる努力もできる。そんな人でも私のことを「自由でうらやましい」と思うのか、と。

そうして私は、私に向かって発せられる「自由」という言葉はどんな意味をもつのか、少し立ち止まってみた。

私が人に「自由だな」と思うのは、素直な表現を目にしたとき。他人の目を気にしない、気にしてあえてやっているのではなくて本当に気にしていない、ふわりとあふれるような素直な感情表現をする人を「自由だな」と感じる。

逆に、私が「自由だね」と言われるのは、ふらふらと旅しているとき。踊っているとき。ブラジルに来た時。平然と「3つ下のブラジル人の彼と結婚する」と言うとき。

おそらく私は、「王道からドヤ顔ではずれてみせる」態度を自由だと言われているのだろうと思う。


多くの人は行き先を決めずに数か月ごとに住む場所を変えることはない。

世間の求める女の子像は子供っぽいかわいらしさだし、ベリーダンスの王道はセクシーな女性っぽさであって、小麦肌ショートカット筋肉質ではないし。

多くの人は大学最後の年でブラジルに留学したりなんかしない。

結婚の王道(もしくは成功)は、「自分と同じもしくはそれ以上の社会階層にいる、家族に紹介しても恥ずかしくない人」と結婚することだという約束になっている。



多分そんな、王道からしれっとはずれてにっこり笑ってみせる態度を「自由」だと言われているのだろう。





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