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風に揺れる芒 十日目

 零雨(れいう)が、屋根を篠突き、それから発される鳴動(めいどう)にて、私は覚醒した。褥(しとね)の横を見遣った。やはり、私の眼前に、よく見知った女の貌が、全く実にこれもまた物々しく、事によっては勿体をつけつつ、其処に在ったのであった。リエは、その身を中天に軽浮させ、此方を凝視していた。……私には、その眼が、己の未練を果たさず、ただ事が行き過ぎるのを安穏(あんのん)と、呆然と、ただ唖然として待望している愚者を、厳然と裁くかの如きものに、思われたのである。……暫く、彼女の、その玲瓏(れいろう)とした、透徹とした、何処までも澄明な、清澄な……透き通った、その眼を、私は見返していた。……赦してくれ。私を、赦してくれ。……私には、貴女の未練を聞こうという、その意志が、如何にしても、否まれるのだ。……彼女の姿が、霞んで見えた様に思われる。……彼女の背後に存するであろう、あの夥しく無辺際に在る書物群を、私の眼識が捉えた様に、私には思われた。彼女が、透けているのか。元来、幽霊とは半ば透明であるものだと、巷談に於いては語られていたが、彼女もまた、その様な性質を獲得したのであろうか。だが、今、彼女を見れば、その相貌は、確かな存在を有するものとして、私の眼に映る。……私の抱く憂懼の見せた、幻影か、幻夢か、或いは、虚妄か。……その次の刹那、彼女の輪郭が、徐々に、不明瞭なものとなっている様に、見える。……いや、実際に、そうなのだ。彼女を構成しているその姿態が、私の眼前にて、溶化するが如くに、中空から霧散しつつあるのだ。……まだ……まだだ。まだ何も、終わっていない。私は、彼女に手を伸ばした。その手は、何にも触れ得ず……数瞬の後、彼女は、その痕跡を何をも遺さず、何処かへと、消えた。……が、その刹那の後、再び彼女は己が消散した太虚の一点にて、姿を現出させる。……おそらく、彼女が、私から去ろうとしている訳ではないのだろう。私が、彼女をその眼にて捉えるに能わなくなっている……ということなのであろう。……私は、霊を視るという力能を有した人間ではない。全ては偶然の為した御業である。故に、それが終わるのも、また偶然が手ずから為す範疇に存するものであるのだろう。…………何れにせよ、彼女との、離別は近い様に、私には思われる。……私は、彼女の望みを、未だ聴いてすらもいない。……これが、彼女との別れであるのだろうか。……真夏の落とした陰影、それが彼女であるとでも、言うのであろうか。……彼女が私の前に現れたことについては、何らかの意図が存しているだろう。或いは、存していないのかも知れないが、その様な憶念、私にとってはどうでも良い。……兎も角、彼女から願いを聞かないことには、何も始まらない。私は、己の負った責を果たさねばならない。
 私は、彼女に、何か願いはあるか、と問うた。彼女に、その終局に際して、何かやり残したことは、未練はあるか、とは、私は、問うに能わなかった。……様々な所以が有るだろうが……これが、彼女との別れである、ということを、私が思念したくなかったが故、であるのだろう。彼女は、私の眼を覗き込み、凝視し、五十音表に於いて、はい、と答えた。では、何がしたい、と私は彼女に問うた。五十音表を硬筆が慰撫する内に、彼女は、う、と、み、に至った所で、頷いていた。
「うみ」
 海、あの茫洋とした、茫漠とした、漠然とした碧虚、海原、紺碧(こんぺき)の存する場所へと、彼女は、赴き、そして見たい、と、そう望んだ、のだろう。やはり、海、か。……窓外を見遣れば、瀧潤(りゅうじゅん)が、地を濡らし、慰め、刻まれた疵口(きずぐち)を癒すかの様に、混凝土の裂開に滴っていた。……明日。……明日、この天水が、降り止めば、彼女を海へと、連れて行こう。……そしてそれが、我々の、束の間ではあったが、同時に悠久に続くかの様に思われた、この永く短き日々の、弥終(いやはて)となるだろう。……十日目の、記録を終わる。

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