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風に揺れる芒 四日目

眼瞼(がんけん)の緞帳を、重々しく、勿体つけ、上げる。やはり、私の眼前に、最早見知ったと言って良いであろう女の貌が、全く実にこれもまた物々しく、事によっては勿体をつけつつ、其処に在ったのであった。女は、此方を直視し、そして、否、それのみである。昨日と比して、私を凝視する頻度が多くなったように思われるが、特記すべき事柄が、この四日目に勃興することは、終ぞ無かった。故に、此処に記すべきことは、殆ど皆無である、と言って良いだろう。女が、浮いては沈み、此方を見ては、彼方を覗き、凝望したと思えば、散漫に視線を移ろわせ、といった事を仔細に記述する責務を私が有しなければ、ということでは、あるのだが。しかし、これにて記録を終えるというのは、実に無味乾燥とした、味気ない、他愛なく、興醒めであり、興趣も無く、情趣も無く……兎も角として、無聊(ぶりょう)である様に、私には思われる。故に、以下に、私の身に起こっている霊象(れいしょう)―霊障では余りにも物々しいため、この様に名付けた―についての私見を幾らか述べ、四日目の流記(るき)とする。……既に、眼前に件の女が浮漂してから後、四の陽と陰が、交錯し、そして過ぎ去って行ったこととなる。一体、これは何時まで続くのであろうか。

熱と時間

 幽霊と相対することとなり、私には、一つ、思う所があった。先日記した私の体調に於ける変化にて、「肌寒い」という記述が存したことは、読者諸賢も御承知のことであろう。だが、それは体内から発せられる警告としての悪寒や、或いは、不気味な何者かに対して平時感ぜられる様な、あの身の凍てつく寒気ではなく、何か、冷たく、それが周囲の熱を、その有りの儘にて、その身に吸引しているかの様な、譬えるとするならば、灼熱の内に於いて、その中心に置かれる氷柱の様な、その様な、肌寒さ、更に述べるのであれば、爽涼の感であるのだ。
 大抵、幽霊が取り憑き、何事かを人に及ぼす場合、上記の様に、不気味な寒気を、対象に感覚させるという描写が、国内外の映像や文芸に於いて散見されるが、実の所、いや、私の場合は、そうではないようだ。ただ、私の周囲に冷ややかな何者かが存し、その結果として、私が肌寒く感じられる、という風なのである。即ち、幽霊を認識する、或いは、幽霊に取り憑かれた人間に於いては、その幽霊の持つ、冷熱の影響を受け、肌寒く感じられている、ということなのである。これについて、私見ながら、一つの論考を此処に記しておきたい。
 幽霊は、まず何よりも、我々の様に実体を有していない、ということが述べられるだろう。だが、幽霊は全き形而上的な存在という訳ではなく、何らかの方途を以て、形而下の実体に干渉する術を有している存在なのである。これに関して、所謂、西洋伝来の霊肉二元論的に思想を施すとすれば、その方途というのは、正しく、人間の内に於いて霊と肉を繋げる「神」の存在の媒介である、ということとなるのであろう。しかし、私には、死霊と現世との狭間に、神が介在するとは、考え難い、というよりも、確認不可能な事項であるため、この仮説を前提とすることは、私が安易に受容し得ないのである。したがって、洋の西の風にではなく、我々の立つ思想的地盤に強固にその根を張っている、仏教思想に基づいて、この幽霊の存在について幾らかの思案をしたい。まず、仏教に於いて最も重要な概念は、刹那滅、というものである。これは、遍くものは、その姿が一瞬にして滅し、かつ一瞬にして生ずる、というその事物に於ける存在の機構を表したものであるが、これに則って考えれば、全ての存在というものは、刹那にして、汎ゆる事物に、「変転」するのである。例えば、そのものとして事物甲があるとしよう。そして、その事物甲が事物甲である間は、ほんの一瞬であり、事物甲の滅したその次の瞬間、事物甲は事物甲ではなく、事物乙にも、事物丙にも、なるのである。つまり、全てのものは、固定的な実体を有しない、ということだ。これを、件の幽霊に適応すると、人間は、またその存在を幽霊に変転させるに能うのである。即ち、霊肉二元論に於ける霊というものが、幽霊と為るのではなく、人間の存在そのものが変化した、その結果が、幽霊である、ということなのだ。仏教には縁起の思想が存するため、これが発生する縁として、肉体が失われる、死する、ということが考慮され得るが、それは余り、此処では重要ではない、煩瑣な事項である。最も此処で注視しておかねばならないのは、「幽霊は、人間の変化した存在である」というその命題である。つまり、幽霊は、霊魂というものではなく、現に存する人間そのものが、変転した姿である、ということが、重要であるのだ。
 では、何故、それが肝要と為るのであろうか。それについては、幽霊と人間が完全に分断された存在である、という前提を阻却し、幽霊と人間が連続した存在である、という仮説を取ることにより発生する、「時間」という観念について幾らかの思念を為せば、明らかとなるであろう。さて、前文の様に、幽霊と人間が完全に分断された、媒介者無しでは成立し得ない別の存在であるという前提を取った場合、其処に時間の観念は存しない。何故ならば、一旦人が死を迎えたその刹那、その人間の時間というものは停止し、或いは消滅し、そして新たに幽霊としての―或いは彷徨える霊魂としての―時間が、刻まれることとなるからである。例えば、私の時間と、貴方の時間、それらは決して共有され得ないだろう。交錯することは在るかも知れないが、基本的には、一人の人間は、一つの時間しか有するに能わないのである。そして、それはそれぞれの人間が、各々別の存在として、独立していることに、起因するのである。幽霊もまた、同じことである。人間が死を迎え、そして幽霊と為る。霊肉二元論的思考に於いてはその瞬間に人間は、別の存在となり、最早人間存在として有していた連続性は放擲(ほうてき)されているのだ。したがって、霊肉二元論に於いて、生前と死後の間には、連続が存在しないが故に、連続を前提としている時間の観念は、成立しないのである。だが、存在の変転を前提としている仏教思想に於いては、人間と幽霊の間には、連続性が担保され得るのである。それは、存在の無限の転化が保証されているが故であり、また、存在に一定にして常住不変の実体を、認めないからだ。これによって、人間と幽霊の間に連続性が発生するため、時間の観念が生じるのである。
 さて、その様に時間を人間と幽霊の間に措定するとして、一体、其処には何が見いだされるのであろうか。それは、私が思うに、死霊の現出に際して生ずる、あの肌寒さの正体である。例えば、私に取り憑いている女を例にとって述べると、彼女の存在した時間というのは、おそらく私が生を受けて以来の時間よりも、遥かに長きものである様に、思われる。幽霊は、その幽霊が死んだ姿から変化を生じない、という描写が、怪奇小説等に於いてよく見られる所であるから、確たることは述べられないが、彼女の纏う、その意匠からして、おそらく今より数十年前に、亡くなった人物であるように、私には見受けられる。此処から述べられることは、彼女の存在した時間が、遥かに私の生などよりも長大である、ということである。そして、この「私の存在した時間より、彼女の存在した時間の方が、長い」ということが、全く興味深い仮説を私に呈してくれるのである。それは、存在した長さの長短によって、その存在の「熱」というものが決定されるのではないか、というものだ。悠久の時を経た彫像、或いは屍体は、全く冷たく、それに対し、生の鼓動を湛える我々人間は熱く、活動期に在る火山は、それこそ全てを溶解させるほどの灼熱を、その身に纏うのである。丁度、硬化時の石膏というものが非常な熱を有するのに対し、硬化後の石膏が冷徹を半永久的に有するのと、若い人間の体温が高く、老人の体温が低いのと、同じことである。今に至る迄、熱は、運動の関数であり、運動によって熱が、熱によって運動が、それぞれ生じるものであると見做されてきた。その様な前提から、我々の存在するこの宇宙に於いて、いつか秩序の壊乱が招かれるであろうことを、人間は予測していた。しかし、熱が、この仮説の通りに、時間の関数であり、またそれが時針の進むことによって逓減(ていげん)される、或いは、時間に比例して冷熱が増す関数であった、という前提を取った場合、全ての終焉には、永遠なる静止が待っている様に、考えられるのである。また、運動というものも、畢竟(ひっきょう)時間の関数であるが故に、熱は時間の関数である、と述べることも、おそらく可能であろうと思われる。
 ……いやに、話が大事になってしまった様だ。幽霊と共に在ると、何故、寒気を感じるのであろうか、というのが、問の端緒であった。その問に対する解は、幽霊が、人間よりも、永き時を経て、存在しているからではないか、ということとなるであろう。……私には、此度、創発したこの憶説が、様々なる可能性を有している様に、思われるのであるが、どうだろうか。

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