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風に揺れる芒 八日目

 暗晦の内の漠とした、暈された階調を有した燈火が、私の眼を、眼瞼の帷(とばり)など、恰も幽霊が如くに物ともせず、透過し、刺衝する。……身を起こし、瞼を開けば、窓外には曇天の暗鬱が、憂鬱と懈怠(けたい)に塗れつつ、在った。ふと眼を横に遣れば、やはり、私の眼前に、翳(かげ)りを見せる碧虚(へききょ)の倦怠が伝染したかの様な、女の貌が、全く実にこれもまた物々しく、事によっては勿体をつけつつ、其処に在ったのであった。終に月から日に至るまでの、七つの曜日を覇し、そして新たなる月に御構の席を、彼女と共に拵えることとなろうとは、思いもしなかったが……。リエは、私のその様な甲斐無き感慨を、全くその澄明な瞳の内へと招き入れず、ただ、平時のとおりに―既に「平時」の通りと述べ得る様になってしまったこと自体、非常に感慨深いが―私の視界に、浮揚しては、また沈降するのであった。さて、時は早くも正午の鐘音を刻もうとしていた。そろそろ、母の呼ぶ声が、聞こえる筈である。……私室の扉に目を移すが、その様子は無い。……今日は、病煩に犯されているのであろうか。これを僥倖とばかりに、私は再び夢幻の揺蕩いに、その身を任じようとし……横臥したが、中空に漂っている筈の、リエの姿が無い。……終に、この時が、来てしまったか。……しかし、その数瞬の後、彼女は何処からともなく、私の眼前へと姿を現す。……何処かへと、赴いていたのであろうか、或いは……。今に至る迄、彼女が私の眼界の外方へと、その浮身を遣ったことは、無かった。……幽霊が、取り憑いた時間の経過によって、ある種の能力を獲得する、あの現象の一例であるのであろうか。それとも…………それとも、私が……その、導因であるのか。……私は、此度にリエと見えるまで、幽鬼の類には、全くの関与を持たず、また見えもしなかった、人間である。その様な人物が、俄にも幽霊と相見えるに能ったとしても……何れ、幽霊を見ることが出来なくなるかも知れない、ということは、思案するに容易であった。……時は既に一週、経っているのだ。……何時、私が彼女を見るに能わなくなったとしても、全くの不可思議である、という訳ではないだろう。霊験は、余り長くは続かない。彼女と共に過ぎ去った日々の内に、彼女は、私の「平時」の、一端を領するものとなっていた。……いや、単に、彼女に愛着が湧いている。私も、覚悟しておかねばならないのかも、知れない……その時までに。
 その様な陰鬱を振り払うために、私は車駕に乗り込み、再び山荘の整備へと向かった。彼女は、あいも変わらず浮き、立ち、沈み、驚嘆すべきことに、私の隣の席へ腰掛けた。そして、一心に、車窓から、何事かを凝視している。その姿は、美しくあった。余りに麗しく、眩く、婉美で、艶やかで……到底、私が、触れ得ない程に……。彼女の視線の先には、やはり街、鳥居、海、がその姿形を勿体つけつつ、鎮座している。……とりわけ、その内に於いて、彼女は、溟海の茫洋に、その黒瞳を凝着させている様であった。彼女は、これまでに何度も記述している様に、女性が夏に着用する様な、白妙の衣に、身を包んでいる。その頭顱(とうろ)に麦藁帽でも被れば、それこそ、誰もが振り返り見るであろう和合が、其処には存するのである。私見だが、夏と言えば、海だろう。あの海洋の茫漠が、或いは、爽涼な潮風の運ぶ凛気が、我々から暑熱の鬱屈を取り去ってくれるであろうことを希望して、盛夏に海へと赴く人間は、多い様に、私には思われる。……彼女も、その様な内の、一人では無かったのであろうか。これ程までに、熱烈に眼下に広がる海原を凝望しているのである。……少なくとも、何らの関係も無いということは、おそらく無かろう。彼女は、海にて、その生の息吹を絶ったのであろうか。彼女は、生前に、海を好んでいたのであろうか。彼女は、海を望みながら、息を引き取ったのであろうか。或いは、何らの意味を持たず、これもまた無意味なあの水塊に、その眼を遣っているのであろうか。……何れであれ、私に、彼女に関する何事をも推断するに、能わないのだ。……幽霊というものは、生前の未練が果たされたその刹那に、彼岸へと渡り行くと、よく聞かれる。……私は、今に至る迄、彼女と意を通ずるに能ったものの、彼女の、リエの、未練なる、未だ果たされざる願いを、彼女に問うことは無かった。それを、私が聴いてしまえば、彼女が、私の眼前から、去ってしまうような気が、そんな気が、した故に。だが、私が、彼女を後に遺し、去ることなど、考えてもいなかったのだ。……朝旦のあの不可解な、リエの消散。……あれはやはり、私が……幽霊を見るに、彼女を見るに能わなくなっている、その事実を示したものでは無いのか。……そうだとするのであれば、私は……私は、彼女の、その未練を、聞き、そしてそれを可能な限り果たさねばならないだろう。……だが………………車駕は、留まることを知らず、ただ山荘へと鉄輪を向かわせる。私の逡巡や躊躇など、極めて煩瑣だと、冷笑でもするが如くに。……彼女の、その透徹した視線が、今では何らかの済度を求める儚きものに、思える。
 山荘へと至った私は、先回やり残していた、絨毯を各部屋に敷いていた。彼女は、余りにも広大であり無辺なこの居間の如き一室の天を、心行くままに彷徨っているかの様に、私には思われた。私は、地を這う絨毯に、眼を遣った。彼女を観るに、彼女との、おそらく遠くはないだろう別離に、思いを馳せることになるのが、理解されたからである。……思えば、彼女について、私はその名以外、何も知らないのだ。……死者は、己が死んだ際の姿にて、現れる。この風聞が正しいとするならば、彼女はこの白練(しろねり)を身に纏い、死んだのだろうか。彼女は、自らの名字を、私に名乗らなかった。彼女が忘失した、ということも考えられるが、家に関する何事かについて、想起したくもないが故に、私に伝えなかった、ということも考えられるだろう。……彼女は、ある男と蜜月の関係に在った。しかし、両親は彼らの関係を認めず、彼らは何処かへと出奔し、そして放浪に己等の自由を求めた。だが、その果て無き旅路も、終に残忍な破滅を迎えた。二人の、海への身投げ、という結末によって。或いは、彼女は痩身である。何らかの病魔に、生前侵されていたとしても、別段不思議のあることでは、無いだろう。……彼女は、ある不治の病に、その身を侵されつつあった。彼女はその相好からして、おそらく、良家の出であろうから、両親は彼女を少しでも生き長らえさせたく思い、彼女を、決して家の外へは、出さなかったのだ。彼女は、おそらく本や、何らかの媒体で、外界の有り様を知ったのだろう。だが、両親は、彼女が外方へと出ずることを、決して許そうとはしなかった。結果として、彼女は二十を越える齢まで、生きるに能ったが、病苦の侵蝕は、その勢止まず、終に彼女は臨終の時を迎える。その時、彼女には、一度もその眼で見るに能わなかった海の、あの無辺際の蒼が、想起されたのであった。……以上は、全て、私の想像であり、憶念に過ぎない。私は、彼女の名を、知るのみであるから。だが、何れにせよ、彼女が、如何様なる生の旅路を辿り、私の眼前に着くに至ったのであれ、私は、彼女の望みを、知らねばならないだろう。そしてそれを、叶えてやらねばならないのだろう。彼女が私の前に現れたのには、何らかの意味が存するのかも知れず、或いは、何らの意味をも存していないのかも知れない。しかし、もしも……もしも、それに意味が有るとするのであれば、私が、彼女の未練を晴らす、ということが、その意であるように、思われるのである。……幸い、と言っては何だが、私の家は、海より近き所に在る。彼女が、海を見たい、と希(こいねが)うのであれば、好晴の蒼天と碧海を、見せてやろうと、思う。絨毯が、敷かれ、作業が終わりを迎える。私が彼女を見るに能わなくなるのが先か、或いは、私が彼女の望みを叶えるのが先か。とはいえ、彼女の望みなど、私には現状、何ら把握されていない訳であるが。……深山から降る涼気が、身に纏わり付き……そして私は、山荘を後にした。
 いざ、彼女から、未練を聞こうと、思い立ったとて、彼女がそれにて消失する可能性を考慮すれば、私は……私は、容易に問うことが、出来なかった。五十音表の上に筆を運んだ所で、どうしても……どうしても、止まってしまう。……今日は、聞くことが、出来なかった。……また後日、彼女に問うてみようと思う。……これにて、八日目の記録を終える。

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