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風に揺れる芒 九日目

 気鬱で、陰鬱で、憂鬱で、沈鬱で、暗然とし、鬱屈とし、暗澹であり、重く、鈍重な、その様な朝闇(あさやみ)の内に、私は眼を醒ました。……やはり、私の眼前に、朧気な女の貌が、全く実にこれもまた物々しく、事によっては勿体をつけつつ、其処に在ったのであった。……朧気。眼を凝らせば、別段平時と変わらぬ、リエの麗目が、其処には確かに……そうだ、確かに、存したのであった。しかし、私には、刹那ではあるが、今にも彼女が此岸を辞するかの様な、その様な、儚い姿に、見えた。……時間は、余り無いのかも知れない。……だが。身を起こし、私は瞑目する。彼女の未練を、私は聞かねばならない……そうだろう、聞かねばならないのだ。……彼女がもしも未練を果たし、そして私の前から去ったとしても、それは、喜ばしいことなのでは、無いだろうか。……幽霊を見るに能うのは、やはり異常のことであろう。また、彼女が彼岸へと向かうことにより、私は日常性へと回帰出来るだろう。……それは、歓迎すべきことではないだろうか。…………出来る訳、無いではないか。どの様な理を後から付したとて、どの様な所以を私が思案したとて……それは、全く空疎なものだ。……曲がりなりにも、私と彼女は、既に八を越えた日々を、共に過ごしているのである。……私は、やはり……彼女との、この日々を、失いたくは無いのだろう。何より、幽霊が見える。この事実が、如何に私の無聊で、無機質な、倦怠と退屈に綾取られた日月に、生を吹き込んだことか。……私は……。眼を、開ける。彼女の姿形が、数瞬、その輪郭を喪失したかの様に、私には見える。……否が応にも、離別の懊悩は、私を訪うものか。……私は、彼女を見た。珍しく、彼女は、私の寝台の隣に、足を地に付け、立っていた。……こうして見ると、一体何が生者と幽霊を分かつのか、私には、不分明なものと、思えてくる。……そういえば、数ヶ月前に著した文書が、その様なものであった。……結局、私はこの九日目に於いて、彼女からその生前の、末期の願いを、聞き出すに能わなかった。ただ、己の煩悶が故に。……記録すべきことはない。…………書き残すべきではないのだ。代わりに、その数ヶ月前に物した文を、此処に掲載して九日目の記述とする。

幽霊の存在論

 貴方の目の前にて、一人の女性が歩いて此方の方に向かって来ることとしよう。……その時、貴方はその向かってくる女性が、幽霊ではないということを、明示的に証するに能うであろうか。私には、甚だこれが難しい問題であるように思われた。何故か。それは、そもそも「幽霊と現実の個物との境界」を思案すればするほど、私にはそれが得体の知れないものと化していったからである。……俄にこの様な突拍子の無い話を投げ掛けられても、おそらく貴方にとっては迷惑千万なことであろう。然らば、経緯を追って、話すことにしよう。
 例えば、幽霊の存在を証明するものというのは、おそらく何をも存しない訳ではあるが、その存在を描いているエクリチュール―この場合のエクリチュールとは広い意味で書かれたもの、即ち映画も含む―は、無量に存するものである。一日、私はホラー映画を見ていたのだが、このホラー映画というのが、実にけったいなものであった。というよりも、端的に出来が悪かったのかも知れないが。その内の一場面に於いて、女の幽霊が女子大生の頭を殴打し、張り倒すというものがあった。……其処で、私は思ったのである。……そもそも幽霊といった類のものは、平時は此方からは見られることがおよそ無いものであり、また、現実に存在する事物には一切触れられない、という描写はよく見られるものである。しかし、この作品の様に、幽霊が現実の個物に対して干渉可能であるという前提を採用した場合、人間と、この幽霊とを隔てるものとは、一体何なのであろうか、と。この疑念というのがしち厄介な代物で、真夜中の三時まで、私の心中に居着いて離れることは無かった。幽霊は取り憑くものではあるが、私はどうやら幽霊についての思念に、取り憑かれた様である。その際にまず以て思案したのが、冒頭の問いであった。即ち、「眼前にて歩いている女性を、私は幽霊か否か見分けるに能うのであろうか」というものである。では、見分けられるのであろうか、と、言うと、実に心もとない。
 例えば、目の前の女性が幽霊ならば、幽霊らしい格好をするであろうから、おそらく見分けられるだろう、という意見が有るとする。だが、幽霊らしい格好をする現実の女性も―例えば丑の刻まいりを行う女性―あるいは現実の女性らしい格好をする幽霊も―お好きなアイドルが主演を務めるB級ホラー映画を見れば良い―確かに在るのである。少なくとも、エクリチュールの内では。現実では……私は幽霊に遭遇したことが無いため、分からないが。しかし、以上の縁から、外見でその人が幽霊であるか否かを見分けるのは、大変難儀であると考えられる。幽霊と現実存在との弁別指標として視覚的指標を用いるのは、何れにせよ困難な様だ。
 では、その件の女性に貴方は幽霊か、と聞けば良い―良くて貴方は不審者扱いであろうが―という意見が有るとしよう。今度は、その対象自身に証言させようという訳だ。だが、これも私にはどうも不十分であるように思われる。私が見たホラー映画の中で自分が死んでいることを自覚していない幽霊というのは多数描かれていたし、何よりも、自己言及のパラドックスという問題がある。これは所謂クレタ人のパラドックスという奴で、ある嘘つきのクレタ人が居るとして、そのクレタ人が自分は嘘つきだと言った時に、生じる例の逆説である。それが本当であれば、嘘つきのクレタ人が(ある意味)正直者となり、それが嘘であれば、クレタ人は嘘つきという命題が嘘ということになって、何れにしても二律背反が導かれるのだ。これは極端な例だが、丁度、件の女性も同じことである。彼女に自分自身について言及をさせたとしても、それは決して明証性を得られない。何故ならば、ある命題の真偽を確定させる際には、それとは別の上位の論理階層を持たねばならないからである。詳しくはラッセルの論理学でも読めば良いとは思うが、何より、女性が自分は幽霊では無いと主張したとて、それが真である証拠は無い。従って、女性の証言は、その女性が幽霊であるか否かを弁別する指標とはならない。古代インドに於いても、証言は議論の前提として採用するには最も弱い証拠であることが、チャラカ・サンヒターにて記されている。
 ならば、これならばどうか。幽霊は、(おそらく)此方からは触ることが出来ないが、現世の個物には触ることが出来る何某かの存在である、という前提を採用し、その女性に握手を求める、というのは、中々良い案ではないか。貴方が男性であった場合、おそらく最悪の場合は警察沙汰ともなろうが、女性であれば、変人と思われるのみで、どうやら済みそうである。しかし、私の見たホラー映画では、幽霊に触っていたものもあったが……今回に限り、それには目を瞑って、考えるとしよう。これで触れられることが出来れば、件の女性は幽霊ではなく、触れられなければ、件の女性が幽霊である、と結論付けられる。……成程、これは確度が一見すると高い様に思われるが、実際どうであろうか。そもそも、与件として、感覚というものが、論証の前提に値するのであろうか、という疑問を、私は持つ。私が触れた/触れなかったというのは、謂わば一個の私の「触覚」の問題であり、そして触覚は感じられたものであるから、錯覚の様に、我々に虚偽を呈することもある筈である。従って、感覚が我々を欺くという可能性があるが故に、これも幽霊と現実個物との弁別指標としては、採用しかねると、私は思う。それに、私は目の前で歩いている女性を論議の対象としているのである。その女性と握手を求められ、それに応じた女性とは、論議対象として全くの別物であろうように、私には思われる。
 ……翻って考えてみて、視覚情報としてしか存在しない他者と、幽霊との間には、一体どの様な差異があるのであろうか、という別の疑念が、私には湧く。そして、そもそも、他者と幽霊との間、というよりも、一切の現実に存すると思惟される個物存在と、幽霊とでは、一体どの様な差異が存するのであろうか、という更に先の疑念を拡大した問いも、同時に私の内には湧き上がるのである。強いて言えば、これは、最早一個の些事などではなく、存在論の問題なのだ。或いは、我々に自明視されている現実性の問題とも言える。それが、冒頭の問いから導き出される問であるように、私には思われた。

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