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風に揺れる芒 七日目

 夏闌(なつたけなわ)の極暑が、私の身を灼き、私の内の湿潤を簒奪(さんだつ)せんとする炎昼に於いて、私の眼は覚まされた。やはり、私の眼前に、見知った女の貌が、全く実にこれもまた物々しく、事によっては勿体をつけつつ、其処に在ったのであった。私の眼前にリエが浮遊してからというものの、一週間の時が刻まれ、ついに昨日、私は彼女の名を知る所となった。しかし、それは彼女の存在の一片をも、私が承知し得たことにはならないだろう。或いは、名のみであれ知り得たことを、幸福と悟るのが、足る者としての努めなのかも、知れないが。私は離床してからというものの、蒼天の茫漠の内に呆けており、リエに、何が故に、君は死したのか、と問うてしまった。……彼女の心中を思い遣れば、この問をすべきではなかったことは、容易に領会されることではあった。……が、寝ぼけ眼とその悪口はそれを、為してしまった。言語に定まった形象は存しないが、そうであるが故に、滅し難いものでもある。……彼女はその身を太虚の一点に、刹那の内にのみ留めると、それきり、虚空を見詰め、此方からの問には、何らの応答も為すことはなくなってしまった。……迂闊であった。私の、失態だ。私は詫び、謝し、己の罪業を贖(あがな)おうと、この七日目の昼夜を費やすこととなった。……結果として、その玲瓏な眼差しは、再び私を捉えることとなったため、私は安堵の息をついている。さて、その様な訳で、本日は記述するに、私の謝罪の言辞のみとなってしまう。しかし、それでは余りにも詮無いことだ。私も慙愧(ざんき)の念に耐えない。……このため、丁度彼女が現れてより七日の時日が経った、ということで、本日の記録は、彼女についての、或いは幽霊と呼称されるもの一般についての、私の憶説を、此処につらつらと連ね、綴り、それを以て七日目の流記と為そうと思うのである。……余り序句が長くなろうとも、倦むばかりだ。では、早速始めることとしよう。

幽霊とは何か

 改めて、私は此処に問うておかねばならないことがある。
 幽霊とは、一体何であるのだろうか。
 この問に正確な解を呈する人間はそう多く無いだろう。私も、この問に答えを与えるとなると、おそらく息が詰まるであろうように思われる。大半の人間は、死者の怨念、或いは、残留した思念、死者が未練を果たすために得た姿、霊魂、という極めて穏当と思われる定義を各々、異なる口であるが、殆ど同じ音として発することであろう。無論、この問に正解など、おそらく存在しない。何しろ、科学全盛期の時代である。疑似科学を科学的に考えると銘打った明治大学科学コミュニケーション研究所のGijika.comというサイトに於いて、幽霊に関する言説の客観性はE、即ち最低である、と評されていた。この問に、客観的な正当性を持った答えなど、存しないと言って良い。いや、それ程までに不分明な領域であるのだ、とも言い得る。兎も角、我々の人口には、所謂「あの世」の話がよく膾炙する訳だが、我々の内の誰一人をも、幽霊とは何か、という問いには確たる答えを持っていない、ということは、取り敢えずの所、言える筈である。
 では、試しにある程度の文化的な正当性は有すると思われる辞書を引いてみて、幽霊の定義を確認してみよう。因みに、私が参照したのは精選版 日本国語大辞典だ。
「①死者の霊魂。亡魂。
 ②死者が成仏できないで、この世に現わすという姿。また、妖怪。おばけ。
 ③八朔に白無垢を着た遊女を②に見立てていう。
 ④実際は存在しないのに、あるように見せかけたものをいう語。「幽霊会社」「幽霊人口」など。」
 なるほど、存在するか否かも分からぬものについて、よく纏められたものである。この内、定義①、②が私の思索対象である幽霊の定義であり、③、④は現実に於ける幽霊という語の比喩から派生した意味である、と言って良いだろう。故に、私はこれから以下に定義①、②についての幾らかの記述を為そうと思うが、特に、問題の所在が明白に、ありありと、歴々とした形で呈されているのは、定義①である。この定義について、私は賛意を表することが出来ない。と、いうのも、一つには幽霊という未確認であり、全くの未知である存在を、これもまた未確認であり、全くの未知である存在として、我々に知られる「霊魂」という概念―ただし、その重さは1オンスであることが何故かよく知られている―で説明するのは如何なものかと思われる、ということもその縁の一つであるが、私は寧ろ、その根底に息づいている、人間は、魂と肉体が一体となって成立している存在であり、両者は分割可能である、とする霊肉二元論的な思想を以て幽霊というものを理解しようとする、その態度について、少々の反感を抱いているのである。それは、何故か。霊肉二元論に於いて、霊とは何であろうか。私の知り得る限りに於いては、デカルトという霊肉二元論を実によく推し進めた近代の哲学者の言に於いては、それは肉体の主であり、単なる延長実体―現実に存するということのみの―肉体を操作するものであった、と記憶している。しかし、これでは十分ではない。デカルトが、別段霊肉二元論の初の提唱者という訳ではないのだ。それよりも、肉体を魂の牢獄であると見做し、其処からの「脱獄」を図ろうとした西洋哲学の祖であるプラトーンに眼を向けた方が良いだろう。彼の定義も、デカルトと殆ど同様のものではあるが、しかし、彼の場合は、一層デカルトよりも理想的な、曰く、それは不滅不変な事物の真の姿である、というものであった。私は、この様な定義に於いて、現実に存する幽霊の、その「真の」姿を捉えることは、到底不可能であり、実に難儀で、困難なことである様に思うのである。私の前に現れたリエ、という幽霊のことを、今に至る迄記述してきた。そして、その内に於いて、私は彼女の姿を「生前に於けるある一時点の姿か、或いは、彼女がその生を失った、正にその刹那の相貌」であるのではないか、と述べたと思われる。或いは、述べてないかも知れないが。しかし、その記述の有無は全くの些事である。此処に於いて眼を注がねばならないのは、彼女が、別段、赤子の姿にて、私の眼前に現れた訳ではない、ということだ。プラトーンの定義に於ける霊魂の定義は、常住不変という所のものであった。つまり、彼の定義に於いて、魂というものは、一切の変化をしてはならないのだ。しかし、人間、生をこの茶番に享受してからというものの、変化し続け、一瞬たりとも、その姿を留めることはない。そして、私に憑いた幽霊は、正に、その「変化した」姿で、私の面前に、姿を現したのである。故に、霊魂、即ち幽霊、という定義について、私はこの点に於いて、異議を唱えたいのである。また、外界の光や風、そして私の言葉等の音に、その身を反応させる点に於いても、全くの完全態であるイデアの如き霊魂は、幽霊ではない、ということが言えよう。それ自身として完全であるのならば、他の何ものからをも、何らの影響も受けないだろう。それが、形而上、或いは絶対、というものである。しかし、幽霊は、必ず形而下に於ける何らかの存在物から、影響を多少なりとも、受ける。したがって、霊魂は、幽霊ではないのだ。
 そうであるのならば、幽霊とは、何であろうか。余り答えを急いて出すのは、感心することではない。我々にはまだ辞書に於ける定義②が、その手の内に残されているではないか。この定義②に於いて着目すべき点は、妖怪、おばけ、は別として、死者が成仏出来ないとして、この世に姿を現した存在である、というものである。成仏が出来たか否かについては、私は余り幽霊に関与の有る事項であるとは思わないが、しかし、何らかの思念を持って、現世に在る、という点に於いては、全くその通りではないか、と思われるのである。幾多の怪談を参照しても、その様であったし、また、私の前に現れた件の彼女も、何らかの思念を持って、この現し世に留まっている様に、私には見える。肝心の、此岸に留まっている所以というのは、私には一向に知られないのだが。或いは、こうも言えるだろう。幽霊というのは、人が死せる際に、何らかの条件を満たした後、転化した姿なのではないか、と。その条件とは、思うに、亡くなることにより生命活動が停止すること、何らかの未練や怨念等の思念を持って死ぬこと、以上の二つである様に思われる。なるほど、死者が変転し、幽霊となるのであれば、死者が何故、有情としてその生まれた刹那の姿を取るのではなく、様々なる姿―複数の説があるが、未練に応じた姿、その人物の最良の姿、或いは、死んだ時の姿、などが挙げられる―で現前するのは、抱え持った未練やその人物が亡くなった際の姿などが条件となっているのではないか、という推理も、また可能となるのである。兎も角、不滅不変の霊魂を幽霊の正体とする言説よりも、死者が様々なる条件によって幽霊と為った、という言説の方が、より私の前に存する現実と、整合する様に、私には思われるのである。
 さて、幽霊をその様な存在であるとして、以下には私がリエを観察することによって得た幽霊なる者の性質を述べようと思う。一つには、よく巷間(こうかん)に聞かれる通り、壁は通り抜け、そして中空に漂う、ということである。これについては今までに記述した通りである。また、光や風、そして音等の、形而下に於ける現象の影響を、その程度に差はあれども幾らかは受ける、ということもその性質として挙げられる。また、それらの現象の影響は、ある特定人物に取り憑いてから―この場合は、取り憑く、ということをある人間や存在と共に存在する、ということと定義する。私は幽霊ではないため、この現象については余り明確に定義するに能わない。全く、不甲斐ない―経過した時間に於いて変化する、ということを、此処に記さねばならない。例えば、ある人物に取り憑いてから、その端緒は光のみの影響を受けたが、時を経るにつれ、音や風の影響を受けるようになった、という様に。或いは、何故かは分からないが、現時点に於いては幽霊が音声を発することは無い、と述べられると思われる。しかし、以上に列挙した幽霊の性質は幽霊一般に適用されるものであるのか、私には測りかねる上、訂正しなければならない可能性も大いにある。その点を、留意しておかねばなるまい。
 以上の通り、幽霊とは何か、という問いについて、私が現状に於いて把握している事項を述べたが、余り、幽霊という存在について、正確に記述しているとは、私には到底思えない。……幽霊に関する記述は、丁度、私と言語との関係に、似ている。言語は、私から発せられたその刹那に、私から逃れ去り、意味という残影だけを後に遺し、何処かへと消散する。幽霊に関する記述も、私から発されたその刹那に、私から逃れ去り、空疎な思索という残滓のみを後に遺し、何処かへと霧散する。……或いは、それが、幽霊という存在なのかも、知れない。

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