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風に揺れる芒 十一日目

 柔和な光が、眼瞼の暗幕から、木漏れ日が如くに、射していた。私は、眼を覚ました。窓外を見遣れば、雲霄(うんしょう)の紫煙に暈された陽光が、辺り一帯を温柔に、照らしていた。……昨日の予報に於いて、今日は、雲翳(うんえい)の続く一日であると、述べられていた。その通り、という訳だ。……天水は、上がった。私は、彼女を……。窓外から私室へと、眼を戻す。やはり、私の眼前に、美しい女の貌が、全く実にこれもまた物々しく、事によっては勿体をつけつつ、其処に在ったのであった。今日で、この「後朝」も、最後のものとなろう。私は身を起こし、リエを凝視した。濡羽の長髪、良く整った、顔貌。透徹した、だがその何処かに虚ろと薄幸、そして儚さを湛えるその眼。彼女に似つかわしい細い首。連なる痩身。纏わった、月白の衣裳。そして、白妙を抜けたその先には、幽艶な美を湛える足。……彼女は、浮漂していた。彼女は、軽浮していた。彼女は、浮揚していた。彼女は、浮遊していた。彼女は、揺蕩っていた。……彼女は、浮いていた。……私を、凝視していた。だが、その瞳には、平時の通りのあの虚空は、あの激越にも見えた無感動は、宿されていなかった様に、私には思われた。……其処に映じていたのは……おそらく、慰め……であったのかも、知れない。……余り、哀惜に浸り、哀傷を慨嘆しようとも、ただその哀哭は、空谷へと、無意味に残響するのみである。……私には、母以外に、これ程までに長く、生活を共にした女性は居ない。故に、この様に感傷にその身を窶(やつ)しているのかも知れないが……実に、遺憾な事実だ。まあ、良い。……行こう。寝間着より着替え、玄関を開け放つ。……珍しく、彼女が、私よりも先に、外へ出る。それに対し、私は、玄関の扉を越え……其処で立ち止まっていた。……逡巡、しているのだろう。或いは、躊躇いか。……それ程までに、海へと、行きたいのだろうか。……幽霊は、己の未練を果たした末、彼岸へと赴く。……余りにも勁烈(けいれつ)な願いは、やがてそれを願った当人にとって、呪いにも等しいものとなる。……人を呪わば穴二つ、よく言ったものだ。未達の願望は、やがて呪いとなり、主を苛む。そしてそれが果たされず、終に願った主がその息吹を此岸に於いて絶った刹那、願いは、未練という縛鎖と化し、主を此岸へと拘禁する。……その成れの果てが、幽霊、であるのかも知れない。……願いの穿孔、主の空虚。正に、穴は、二つ空けられた、という訳だ。停車場の中空にて、彼女の姿が、不明瞭となる。存在が、滲む。霧消する。その数瞬の後、彼女は再び現前する。……彼女は、幽霊だ。……彼女のその願いを果たし、彼女を、安息と安らぎの最中に彼岸へと渡す。その責任が、私には、ある。……行こう、彼女が、私の視座に在る内に。もう、余り遺された時間は無いのかも知れない。私は銀輪を疾駆させ、海へと向かった。
 リエは、常とは違い、宙空にて私の移動に合わせ、その身を移すのではなく、私の後ろに、乗っていた。……地に足を付け、また私と意を通ずるに能う幽霊である。……この様な芸当は、可能であっても何ら奇異の念を抱くに値しないのであるが、私は、彼女の方を……見るに能わなかった。……無論、運転の最中に振り向くなどという無謀を、私が犯すに能わない、ということも、あった。だが、それ以上に、彼女の顔を、私は、見られなかった。……思えば、十一日の間、様々なことが有った。突として現れ、中空に浮かぶ人間を見た、あの驚愕、私を凝視した彼女に対する少々の一驚、彼女が私の言葉に答えた刹那の驚嘆、彼女と言葉を交わした時の感嘆、そして、彼女を、私が見ることが出来なくなるであろうと、確信した、あの哀切……。様々な、ことが有った。……彼女が何を思案し、何を感覚し、そしてどの様な思念を懐き、此処に在るのか。私には、杳として知れぬことであった。……そもそも、私は、彼女の名以外、何をも、彼女を知らないのだから。悲しむべきことであるのかも知れない。……だが、既に、彼女は、亡くなっているのだ。……既に、私の手の内から、零落(れいらく)してしまっているのだ。……其処に在る様に見えても、無いのだ。……丁度、幽霊の、様に。銀輪を進め、赤光に、その歩みを制される。彼女は、私の眼を、覗き込んだ。……全く、美しい、瞳だ。透徹して、透明で、濁り無く、清冽な、清純な、純粋な、澱みなく、澄明な、清澄な、清らかな、澄み切った、玲瓏な……何処までも、何処までも、透き通って……触れられない……その美艶に、その此岸のものとは思えない幽美に、私は圧され、只管に沈黙するしか、能わなかった。出来るならば、彼女を喪いたくなど、無い。しかし、彼女は……この世のものでは、決して、無いのだ。赤光の光煌が、私を存恤(そんじゅつ)するかの如くに、煌々と、何処か一抹の哀情を閃かせつつ、蒼光へと、その身を変転させる。……あと一つ、信号を越えれば、あの深藍(ふかあい)の存する地へと、辿り着く。銀輪は、前へと進む。私の、迷いを、弱志を、因循(いんじゅん)を、猶予いを、揺蕩いを、彷徨を……薙ぐかの様に。
 信号を越え、緩慢な坂道を登ると、公園が視界に入る。その公園は、実に名が体をよく表しており、名を「港の見える丘公園」と言う。朦々たる白雲は、おそらく晴れることが無いだろう。私は、リエと共に、公園の名が記された看板を越え、草臥れた二輪を駐車する。緑草が生の息吹を漲らせ、一帯を被覆する砂塵は、温熱をその身に纏っていた。曇天のためか、あの炎夏の暑熱は去り、ただ薄暑と、吹き付ける風が、頬を撫で付けては、過ぎ去って行くのみであった。しかし、あいも変わらず、この薄雲に綾取られた雲居ではあったが、鎮座する漆黒の艦船の模造のみ、その身に熱を潜ませている様であった。彼女の輪郭が、霞んで、見える。……時間は無い。私と彼女は、護岸堤の方へ、その歩みを進め、そして……蒼の茫漠が、深藍の乾荒原(かんこうげん)が、碧虚が、その内に太虚を有するあの紺碧が……我々の前に、その相貌を、現す。海……海、だ。私は、彼女に、海だ、と、述べた。彼女は何時の間にか、中空の浮漂を止め、私の隣に、地に足を付け、その双脚を以て、立っていた。彼女を包む白妙の衣は、風に揺れ、揺れている。彼女は、生きているのだろうか。……或いは、死んでいるのだろうか。……私には、分からない。溟海(めいかい)の茫洋が、我々の前に呈され、無機質な波消しのみが、此岸の我々と彼岸の青畳(あおだたみ)を分かつ。遠海では、黒橡(くろつるばみ)の船影が鈍重な歩みを進めている。海風は、ただ只管に、凪いでいた。リエを、見る。彼女は、眼前に漠然と、朧気に展延する群青に、その眼を凝着させていた。……ただ、何かを捉えんがために。ただ、その視座にこの蒼海を刻印せんがために。ただ、己の内に滞留した未練を、願いを、此処に果たさんとでも、するかの様に。……彼女は、あの太虚を凝視していた時の様に、一心に、海原を凝望することに専心していた。……これが、彼女の、末期の願いであったのだろうか。……私は、彼女の未練を、果たすに能ったのであろうか。

 風が。爽涼な、清新な、清々しい、爽やかな、一陣の風が、一抹の寂しさを孕んで、私と、リエの間を、吹き抜けた。

「ありがとう」

 彼女が、言った。いや、私には、その様な気がした、だけなのかも知れない。或いは、私が贋造した、幻聴なのかも知れない。

 私は、さよなら、と、言わなかった。さよならを告げるのは、少しだけ死ぬことだ。……彼女は、既に死んでいる。

 風が去り、後には、私が残った。……リエは居ない。彼女は、居なくなった。この居なくなった、ということは、単に在らなくなった、ということを、意味しているのではない。彼女は、其処に、無いのだ。既に、其処には、無いのだ。在らなくなった、ということは、存在を前提としている。……無い、とは、存在を前提とはしていない。無いのだ、彼女の、存在が……。風が、風だけが、ただ、吹き、包み、そして、去って行く。……一つだけ、言えることがある。潮風が辛いのは、海塩に依るばかりでは、無い。

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