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風に揺れる芒 三日目

 さて、眼、というものには、古来より様々な表象が纏わり付いている。その一つには、万物を見通すことにより、神、即ちいと高き者の表徴が存し、或いは、眼には精神に於ける最後の鉄桶(てっとう)と為り、その身に襲い来る姦凶(かんきょう)より、己が身を守る役割を担うといった表徴も、存するのである。前者の表象というものは、私にとっては些末であり、特筆して注視すべき点は無かろう。だが、後者には、全く我々、特に、私は、注目せねばならない。目は、古来より、精神的な邪悪に対する防護壁の役割を果たしていた。それは、科学主義の全盛期である現在であっても、霧散した伝統の残滓(ざんし)として、様々に見られることである。例えば、貴方が道に在り、その先からある御仁が此方へと向かい来るとしよう。そして、その輩というのが、明白に魔魅に塗(まみ)れ、宿業をその身に受け、凶逆をその身に纏った様な、その様な人相の者であったと、しよう。すると、半ば前意識的に、貴方は、その御仁から眼を反らし、其方を見ないように、努ることであろう。これを行う所以の一つとして、その人物と余り関係を持ちたくない、という心理機制が働いた、ということは、考えられよう。だが、それは、件の人物が邪な何者かである、という判断を前提としてのことである。つまり、我々は、その人物より逃遁せんが為に、目を逸らした訳ではないのだ。むしろ、獰悪(どうあく)にして醜悪なる何者かを眼中に収め、其処から発せられる何か悪しきものより影響を受けないがために、眼を反らしたのである。即ち、この眼の防御機構なるものは、まず第一として、己にとって悪しきものを、眼中に収めない、ということから端を発している、という命題が述べられるのではないだろうか。よって、何らかの濫悪なる者が視界の内へと闖入(ちんにゅう)した場合、眼の防護というものは、まず以て発効され得ないのではないのであろうか。……では、何故私がこの様な議論をしているのか。……また、その縁も、以下に記さねばならないだろう。
 眼が、醒めた。すると、私の眼前に、知らずということはない女の貌が、全く実にこれもまた物々しく、事によっては勿体をつけつつ、其処に在ったのであった。……それは良い。だが、女のその麗色と佳容を湛えた顔貌が、私の面前に、卑近な距離に在り、そして、その眼に、私の眼の黒檀(こくたん)が、映し出されていた。……いや、これは私の眼の湛える黒ではないのかも知れない。女の眼が映じていた、あの虚ろなる深淵を眺むる様な、その様な空谷(くうこく)の暗夜に、私の黒檀は、呑まれたのかも知れない。だが、女は、確かに私をその眼の内へ、捉えていたのだ。私は、驚悸(きょうき)に衝かれ、身を上げた。女の半身を素通る。……幽霊には、時に、邪悪なる者が存する様である。これまでの来し方を通じ、この女がそれであるとは考え難かったが、その想定は、当然為されるべきであった。……何れにせよ、女は、私の、その精神の防護壁を、全く容易く、逃避し、そして侵入したのである。……何事も起こらぬため、おそらく、この女は所謂、邪霊なる存在では、無いのであろうが。私は、安堵の息を吐きつつ、その身を臥房へと再び横たえる。……女は、これに至るまでは、私の枕下を矯(た)めつ眇(すが)めつ、虚空に専心し、凝視している様であった。しかし、事ここに至り、此度は、私の眼を一心に見つめている。……つまり、この様なことなのであろうと、推察される。……女が私に取り憑き、三日目。女は、漸(ようや)く、私を識るに至ったのであろう。……その様に思案した次の刹那、女は不意に、再び不可視の太虚へと目を遣る。……真に、私を認識するに女は至ったのであろうか。……と、思うと、此方へと目を向ける。……だが、その黒瞳は、私を映じている様ではあるが、やはり、女の常に見据えている何らかの虚無を、その本色として宿している様にも、私には思われる。……女は、机上に、私と相対するかの様に、浮漂し、時折、此方を凝視している。…………三日目にして、どうやら私の存在を、女が認知したという見解に、相違は無い様である。
 女が、私を認識した、といって、他に特に何が在った、という訳ではなかった。女はあいも変わらず私の周囲を浮漂しては、地に足を付け、歩む素振りを見せる。私は床より這い出し、車賀(しゃが)へと乗り込んだ。その日は、新たに購入した物件の整備をしようと、深山(みやま)に存する山荘へ、赴く予定であったのだ。女も当然の如くに―この状況が当然と、述べられるか否かについての判断は差し控えるが―乗り込み、浮遊する。……これについて、私は一つ、記銘しておかねばなるまい。さて、幽霊というものが、全く現世より離反した何者かであった場合、おそらく、車であれ、何であれ、その様な移動する物体に己の取り憑いた者が乗じた際には、取り憑いた者のみが移動し、そして幽霊はその場へと、扨(さて)置かれることとなろう。だが、そうなってはいない。……これから推断するに、蓋(けだ)し、幽霊というものは、それ自体として、何らかの現を、認識しているのでは無いだろうか。……例えば、この様な、車内、車外、等の現の事象である。即ち、何らかの内外を識別する能力を、幽鬼は現世にて有しているのであろう。……しかし、幽霊は、どれ程堅固な壁であっても、擦り抜けるに能う、といった俗説も聞かれる所ではある。さて、私に取り憑いた麗人の場合、確かに、どの様に鈍重で、重厚な壁であれ、それを透過するに能う様に思われる。少なくとも、凡庸な玄関程度であれば、容易に通り抜けられる様であった。……このことから思議すれば、余り幽霊に内や、外等といった概念というのは、無効の、また無可有のものであるのかも知れないが。車内に留まり、漂い、浮いているとはいえ、その車内の中空にて、車駕と同様の速度にて移動しているのであるのかも知れない。……何れにしても、幽霊なるものは、私の思念を、およそ超越した何者かである、ということのみ、私には容易に示されているのである。その様な事柄について一考を構えていた車内だが、女は此方に眼を向けては、彼方へと眼を遣り、彼岸を凝視しては、此岸を凝望していた。つまり、女の視線は彷徨(さまよ)い、流離(さすら)い、漂浪し、その身を一所に留めることが無かったのである。これに至るまで、女は虚空を睨め付け、覗き見るに、一心不乱に専心していた。だが、今となっては、様々なる事象に目を向け、そして、それらの一々を注視している様に思われた。車輪が、空闊(くうかつ)たる眺望を呈する場へと赴き、赤光(しゃっこう)がそれを止める。すると、女は、窓外に一心に眺め入り、決して、その視線の朧を、動じようとはしなかった。……その先には、眼下に呈される街並み、大鳥居、そして……広遠なる、溟渤(めいぼつ)。この女は、その虚ろなる瞳にて、一体何を、見ているのであろうか。街並みに在る、人々の生を眺むるか、神聖なる大鳥居に、或いはその済度の縁を求むるか、また、溟渤の茫漠に、その身を投じ、そして…………。何れにせよ、女は語らず、私は、ただ憑かれるのみである。……女の、その眼に映じる何かを、私が共に眺め入ることは、おそらく無いのであろう。だが、私は、知りたかった。……知りたかったのだ、それを。……車輪が軋み、鉄塊は、山道を登攀(とうはん)する。女は、その視線を、おそらく今に至るまでに覗き続けた、あの太虚が如くにまた遷ろわせる。その肢体は、茫漠と、舞い、漂泊し、所を定めない。三日目は、平時の通りに……いや、これまでの二日間と同様「非常」に、終えることとなった。
 これは追記であるが、遂に、この憑依生活も三日目を迎えた、ということで、此処に私の体調について述べておかねばならないだろうと思われたが故に、それを此処に記すこととする。大抵の場合、幽霊に憑依されたとされる人間は、その体調を崩し、何らかの病に罹患する様である。例えば、頭痛、悪寒、発熱、といった症状が、主なものであるらしい。しかし、昨今の精神医学に於いては、幽霊も何らかの譫妄(せんもう)として、理解されるが故に、幽霊に憑かれる、という事態が了解されること自体に於いて、一種の「幽霊病」に罹患している、ということと、為るのかも知れないが……。だが、私は全くの健康であり、またその精神は決して病魔に侵されたものではない。少なくとも、私に取り憑いているのは幽霊であり、それ以外ではないのだ。しかし、その身体の壮健に対して、これは一日目から記録すべきであったのかも知れないが、何処と無く、何処に在ったとしても、寒気立つことが、存するのである。けれども、それは悪寒ではない。ただ、何か清冽にして、この酷暑にては、爽涼にも感ぜられる、何ものかが、私と極めて程近い距離に在り、その結果、私が冷感を覚える、といった具合のものなのである。……さて、これはやはり女が私に憑いているのを縁として、生起した事象、即ち霊障、とでも名状すべき事柄であるのだろうが、別段、私に於いては、これは障害と、厳しく呼称すべきものではなかった。しかし、これが激化する様であれば、私もお祓いといった手段に、出ざるを得ないのかも知れない。……とはいえ、この様な雲鬢(うんびん)に、再びの死を与えるに、私のこの両の手は、相応しく無いであろうと、思われる。

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