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誤謬と唯一性

まず、この写真を見ていただきたい。

主に右下に注目

何かおかしい、と、思われないだろうか?
……そうなのだ。これは私が三月に、さる書店で購入した『言語・真理・論理』というちくま学芸文庫の一冊なのだが、丁度頁の右下に、妙な切れ端が、付いてしてしまっている。恐らく、印刷時に何らかのミスがあり、そしてこの様になってしまったのであろう。本というものは、落丁や乱丁があれば、大抵の場合、出版社に送ると、取り替えてもらえる……というのは、多くの読者諸賢の知る所であろう。無論、私が再びここで述べることではない。この妙な切れ端は二頁に亘って付いており、そのためか、最終頁より一頁前の頁を読もうとすると、少々骨が折れる。明らかに、取り替えてもらった方が良いのだろう。しかし、何を思ってか、私はこの本を手元に置いたままにしている。何故だろうか?

次に、この写真を見ていただきたい。

主に中央に注目

これもまた、何かおかしい、と、思われないだろうか?
ただし今度の写真は、一枚目ほど、容易には誤謬を発見されないと思われる。
……さて、何がおかしいか、お分かりいただけただろうか? そうなのだ。これは私が約半年前に購入した『信州善光寺 門前甘酒』という飲料のパッケージなのだが、本来「保存料を使用しておりません」と記述されるべきであろう事項が、「保存料を使用して降りません」と記されてしまっているのである。これに関しては販売元に送ると代替の商品が届くものではない(ということも、読者諸賢はご存知の筈である)ため、この誤字はどうしようもない。だが、所詮は甘酒、飲料だ。飲んで、そこらのゴミ箱に他の可塑樹脂性の塵芥とともに捨てれば、何ということはない。そもそも、飲料のパッケージなど、余程の暇人か狂人でなければ、まじまじと一読することすらないだろう。つまり、この誤謬は、甘酒にとっては何ら本質的なものではなく、況して味に支障をきたすものでも、決して無い。故に、こんな些細なミス、気にせずに飲んでしまえば良いのだ。……しかし、何を思ってか、私は賞味期限が切れても、この甘酒を手元に置いたままにしている。確かに、大抵の場合、甘酒は腐らないものではあるが、何故だろうか?

以上、二つの写真を読者には見ていただいた。
その何方にも、明らかなミスがあり、そしてそれらは、何れも取り替え、或いは、飲んで捨てる、といった様なことで、解決可能なものであった。けれども、私は何れに於いても、それをしていない。……し、金輪際、行うことはないだろう。何故か?……私が、これらの誤謬を愛おしく思ってしまっているが故である。
あの本も、あの甘酒も、私は愛してしまっているのだ。
……一体、何故なのだろうか?

本も甘酒も、その何方もが、何らかの誤謬を有するものであった。思えば、「手がかかる子程かわいい」と、世間に於いてよく言われる様な、その様なものであるのかも知れない。手がかかる、とは即ち、何らかの誤謬を有する、ということであろう。それを正していく、というところに、手がかかる子供の世話の楽しみ……というものがあるのかも知れないが、生憎、私は独身者であり、本も甘酒も、全く手がかかるものではない。したがって、過ちを正していく楽しみがあるからといって、私はあの本を、あの甘酒を、愛している訳ではないのだ。もっと何か、別の理由がある。

ところで、誤謬、という語を見て私は、真っ先に数学のことを思い出していた。恐らく、読者諸賢も(一部の読者は違うだろうが)中高時代に苦しめられた、あの数学だ。私は良く数学の問題を間違えていたし、そのせいで二つの浪を、高校卒業から重ねることとなった。思えば、数学の間違い方、というものは実に多彩である。ある時、私は問題文の条件自体を見落として間違え、そしてある時は単純に計算を間違え、またある時はそもそも何の公式を適用すれば良いのかが分からず間違え、さらにある時は解答欄を一つずつ間違えるという、致命的なミスを犯した。ちなみに解答欄の間違いは私が二年目のセンター試験を受験した時のことである。数ⅡBでの誤謬だが、忘れもしない。……そのことは捨て置くとして、この様にして数学の間違いというものを観覧してみると、実にその間違い方は多様で、数限りないものであった。
してみると、数学という一つの学問領域でさえそうなのだから、他のものの間違い方というものも、恐らく、無限に近いだろう、と、私はふと思う。つまり、誤謬の仕方というものは、十人十色、千差万別であり、一通りしかない正解と対にして見てみると、それに私は遥かなる無極を感じてしまうのである。しかし、こうも考えられるのではないだろうか。誤り方というのは、無数に存在し、つまり、間違い方というものは、人それぞれに、存在するものではないか。即ち、誤謬は、唯一性を有するものではないか。

思えば近現代とは、個人の時代とも呼ばれているが、それは同時に「大衆の時代」でもあった。大衆とは、画一化された人間のことである。つまりは、社会、或いは世界を回すために品質を画一化された歯車になることを、近現代は我々に要請したのである。そして我々はそれを知ってか知らずか、受け入れた。その証拠に、我々は画一化された生活を、日々送っている。画一化されている、ということは、皆同じ、ということであり、そこに用意された正解というのも、数学の解答の様に、一通りである。つまり、我々には一つの正解しか、許されていないのだ。例えば、この茶番に生を受けたのが悲しくて声を上げて泣いてから数年後、幼稚園や小学校といった教育機関を経て、最終的には就職しつつ結婚し、子供を産んで労働に身を捧げるのが正解、という様に。これを十全に行える人間であれば良いだろうが、それを出来ない部類の、私の様な人間にとっては、息苦しいことこの上ないものだ。それにこれにはより重大な問題が含まれているのである。画一化され、正解も一通りということは、即ち、誰がやっても一緒、ということであり、それは個人が「取替可能」なものとなる、ということだ。つまりは、私が私という個人であることを、近現代は拒否している。そこには、唯一の人間ではなく、交換可能の部品しかない。……それが、近現代社会であった。個人というものの唯一性が、剥奪されてしまったのだ。
けれども、必ずしも、人間というものは、誰もが正解に辿り着くというものではない。ある者は間違い、そしてある者も間違え、さらにある者も間違えるだろう。つまり、我々は間違えるのである。そして、その間違い方というものは、千差万別、十人十色、無量無辺にして、人それぞれの、その人に固有のものである、ということを、我々は知っている。正解は、一つしかない。某少年名探偵も真実はいつも一つ、と事あるごとに嘯(うそぶ)いている。確かにそうだ。そして、それは万人に妥当するものである。翻(ひるがえ)って、間違いは、無数に存在する。そして、それは、ある個人にしか妥当しないものなのだ。これから考えてみれば、一つのことが言い得ると思う。この大衆の時代、近代から現代に至って、ただ一人の人として、個人として在るためには、我々は間違わなければならないのだ、と。即ち、間違いとは、我々を苛立たせる不快な事項などでは決して無く、むしろ、唯一性を「唯一」導出し得る、我々への、福音なのであった。

世の中には箴言というものがあるもので、その中には、この様なものがある。
To err is human.
これは普通、過つは人の常、という意味に訳される。しかし、もう一通りの訳し方が、ある様に、私には思われる。
誤りは、人である。
……そうだ。我々は、誤りによって大衆の一人ではなく、ただ一人の、唯一の「私」となるのだ。

あの本も、あの甘酒も、その何方もが何らかの仕方で間違えていた。つまり、その何方もが「唯一のもの」であったのだ。故に、私は、あれらを愛しているのであろう。あの本も、あの甘酒も、誤っていて、そしてそれを有する私も、また誤っている。
本も、甘酒も、私を、私にしてくれる。私を、人にしてくれる。
実に愛しいものだ。

さて、これは昨日のことだが、私はスーパーから買い物を終えて帰ってくると、すぐさま、レジ袋の中身を冷蔵庫に仕舞った。……筈であった。なんと、内容物が余りにも多く、扉が閉まっていなかった。その状態で三時間、私は放置してしまい、諸々のものを駄目にしてしまった。無論これも誤謬であるが……全く、困ってしまう。
人であることは、実に難儀なものだ。

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