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おばあちゃんとの悲しいけど幸せだった最期

こんにちは、世の中は今日からGWですね。
いえ、正しくはもう6月の末です。…いや7月1日になっちゃいました。
そうです、また下書きのままにしてしまいました。
今思い返すと去年はコロナにかかって、精神が終わってましたね…

先日おばあちゃんとのことを書きました。
あれからあっという間に2週間…ではなく、2カ月経ちました。

ちょっとどう書けばいいかまだ分からないけど
今日なら勢いよく書ける気がして久しぶりにnoteの下書きを開きました。
頑張ります。

前回の記事は、病院で書きました。
すごくエモーショナルで、あの時の瞬間がとても大事で
まとまらなくてもいいから残したいと思って書いたんですが
今でも書いてよかったと思います。

あの時、5:16AMでした。

あの記事を書いていた時私は、一人でした。
あの1時間半後に、おばあちゃんは眠るように、この世を離れていっちゃいました。
今日はおばあちゃんの最期の夜について、思い出しながら
キーボード叩いてる今まさにうるうる涙が出てきますが
忘れたくないし、とても大事な記憶と時間だから残していきたいと思います。

入院2日目の朝から夕方

入院初日の夜は、自宅に帰宅して、
その夜は母がおばあちゃんと付きっきりで過ごしました。
その夜は近隣のお部屋でおじいちゃんが叫んでいて寝れなかったと母が言っていたのを覚えてます。

朝起きてすぐ、今夜は絶対におばあちゃんと一緒にいなきゃと思った私は、簡単な部屋着、仕事道具などフルセットで用意しました。
当日夜勤予定の彼に、申し訳ないけど病院まで送ってほしいとお願いし、
朝からおばあちゃんの病室へ行きました。

母親はくたびれていたので、早朝にすでに父親と交代してました。
私が到着したとき、父親がなぜか病室ではなく
ナースステーション前の待合室でぼーっとしていて衝撃を受け、
思わず「なんで病室におらんの?!おばあちゃんに何かあったらどうするの?!」と言ってしまいましたが、
父親が「いや、先生が思ったよりも体調いいって、もしかしたら退院できるかもなんて言ってるからさ…」というので、
戸惑いながらも先に病室に行きました。

すると、確かに昨日よりは顔色がまだよくなっているおばあちゃんがいました。
前日は目がずっと上を向いていたのに、今日は目が合う位置にある。
それだけでも少しほっとしました。
テレビがついていて、観れてはなさそうだったけれど、音も少しするので昨日よりはまだ朗らかな状況かなと思い、安心して、
「おばあちゃんごめんね、私お仕事横でするね、お話できないけど横にいるよ、ずっといるよ!」と話しかけてそこからずっと仕事しました。

お昼過ぎには、前日来てくださっていた長年のおばあちゃんのお友達がもう一度来てくださいました。お祈りも一緒にしてくれて、昨日よりはいいよね、なんて話しながら少しの間一緒に過ごしていました。

夕方には、会社の部活で仲良くなった別部署の方と
ご相談にも乗ってもらい、とんでもない状況で申し訳なくて
途中謎に涙止まらずでやばかったけどwお話聞いていただきました(´;ω;`)

ただ、ちょうど仕事が終わったころから急におばあちゃんの様子が不安定になりました。
仕事に集中しすぎて構ってあげられてなかったのがまずかったか…と考えたりも正直しました。

母親が実家に戻り、家事をしないとまずいと言って実家で家事をしているときに心拍数がだいぶ下がり私がパニックになり、鬼電しちゃいました。
実の母親の最期がこれだったらまずいとその時思いました。
母親も、家事がもうすぐ終わる~というタイミングだったらしく
あたふたしてしまい、急いできたものの、数時間後また実家に戻って忘れ物取りに行ったりして夜の10時くらいまで確か落ち着いていなかったと思います。
この、心拍数のエラー音で何度看護師さん呼んでしまったかわからないです。それくらいこの時…一人で焦って悲しくて涙止まらなくてティッシュも間に合わなくて鼻水止まらないしご飯も朝からずっと食べれなかったです。

親切で、いろいろお話してくれた看護師さんの中で一人、そんな私をみて心配だったのか、ほんとはダメなんですけど…でも…お姉さんずっと患者さんのそばにいて何も食べてない…ちゃんと飲み物も飲んでますか?秘密でお願いしますよ、食べてください!ってアーモンドチョコレートを手に渡して握ってくれました。私さらに泣くw自分がしっかりせい!と言いたくなりますがこの時ばかりはもう…病室から1歩も出れませんでした。
頂いたアーモンドチョコレートは、さすがにお忙しい看護師さんを心配させて余計な仕事これ以上増やしてしまったらまずいと反省し、もらった後すぐ食べました。

幼少期以来、初めてのおばあちゃんと母と私のお泊り会

私が一人、おばあちゃんと付きっきりのころ、母親は実家と病院を行き来し、何も食べてない私を心配してスーパーの総菜弁当と冷凍のご飯等をチンしてあるやつを家から持ってきてくれて、
「あんたいい加減、なんか食べなさい、ぶっ倒れるよ」
と言われてさすがに確かにここまで用意してくれてるから食べたほうがいいか…と思い食べることにしました。

なぜここまで私が食べなかったかというと、
もちろんおばあちゃんのそばにずっと居たくて、食べる暇あるんだったら
横にずっと居たいと思ったのもそうなんですが。
何より、認知症でしかも胃瘻で、ずっとご飯を食べれていないおばあちゃん、しかもここ数日?1週間だったかもしれない…胃瘻の栄養ですら入れてもらえていない、瘦せ細ったおばあちゃんを目の前に、
いくら認知症とはいえ嗅覚はあるでしょうから食べ物を食べる…というのはできなかったです。
戦争で幼少期食べ物がなくて死ぬほど苦しんだおばあちゃん。
疎開先で兄弟と離れ離れになり、一人で遠い親戚と暮らしていたり寂しい思いもしていたおばあちゃん…子供の時から話を聞いていて大変でつらかったと。でまた、コロナの間に何も頭で理解しないまま勝手に胃瘻手術され、
いつの間にか食べることを許されなくなったおばあちゃん。
そんな状況を知っていたからこそ、私は食べれなかったんです。

でも…せっかくお母さんが用意してくれたご飯を粗末にすることもできないなと思いました。自分は今、生かされているなと思いながら、本当に泣きながら「ごめんね、おばあちゃん、一緒に食べたかったけど…失礼するね。」
と声かけて、母親と個室の入り口の端でお弁当を食べました。
その時、久しぶりに母親と食事をしたかもしれないです。

以前は週末毎週のように会っていましたが、
今の家に引っ越してからは会う頻度が圧倒的に減りました…
だから久しぶりに一緒に平和に食べれて幸せな一時でした。
母親が、私が今日おばあちゃんと一緒にいてくれて助かったと言ってくれたのもうれしかったしほっとしました。
食べた後母親が、横になりたいとのことで部屋の電気のほとんどを消して母が寝ました。

そのあとはず~っと私とおばあちゃん二人きりで一緒にいました。
なんとなく…もう長くないなと母とも話していたのですが
そろそろお別れかもね。たくさん感謝の気持ちを伝えようねと
途中母が起きてきて会話したときに話していました。

2人でおばあちゃんにたくさん、「ありがとう」を伝えました。
私はず~っとず~っと、手を握り締めて、ハグしたり、ほっぺやおでこにキスしたり、頭なでたり。
後悔したくないから言葉だけじゃなくて行動でもたくさん感謝と愛を伝えました。ずっと会えてなかった分、ここ数年一緒に撮った写真も少ないので、写真も一緒にたくさん撮りました。
お話もできないし、目も残念ながら合わないけど、
でも一緒に過ごした時間が大事すぎて、動画と写真で納めました。
今でも、寂しくなると、おばあちゃんに会いたいから、みます。

枕に落ちたおばあちゃんの髪の毛を、もったいなくて、全部拾って丁寧にティッシュにくるんで大切に保管したり
なんとなく…不思議なんだけど最期が本当に近いなと思って
なんか心の準備なのかな…自分がなんかほんと夜不思議でした
冷静になるときがあって、おばあちゃんの身体の変化にもすぐ気づき、
死期が目の前だと。
死期の特徴をググっては、あ、おばあちゃん…そろそろかもしれない…と思っていました。

痰を取りに、看護師さんが来て、チューブを入れると本当に本当に痛そうで、もう見ていられないくらいなんですが
夜も深まるころにはもう、抵抗を全くしなくなりました。
それがすごくすごく切なくて、切なくて。
昨日は私の手をぎゅっとつかんで、目を見て助けて!とおばあちゃんが訴えていたのがわかったのに、今日は全然だ…一度も、握ってこない…と朝から思っていたのですが朝はまだ足など動いていたけど、この頃は足も動かなくなってきていました。
指先、足先が少しずつ、紫色に近づいていっているのも感じていたので
そういった経緯でお母さんに私はこの日、間違いなくもう永くないよ。と言ってました。

あっという間に過ぎていった最期の夜と朝

普段、ニューヨーク時間みたいな生活(夜型です)してるからか、
全然眠くなくて、あっという間に明け方になり朝を迎えました。

太陽が出てきたころにおばあちゃんに、
「おばあちゃん、朝だよ~!朝!晴れてるよ!一緒に朝迎えられて嬉しいな、今日はいい天気だよ~」と声をかけて、一緒にいました。
朝を迎えてほっとして、noteを書きました。
ちょくちょく夜も書いたりしてましたが、朝に一気に書き上げました。

朝になって母が起床し、一度家に帰って残りの家事をするとまた言うので、わかったといい、私が一人で過ごしました。ただ、すぐ戻ってきてほしいと伝えました。
noteを書き上げたのが5:16AM。
LINEを見返すと、当時5:53に母に電話をかけてました。
戻りが思ったより遅く、しかももうおばあちゃんが本当にやばかった
このままだといっちゃう、だめだめ、だめ
お母さんまだ戻ってきてないからだめ!と思って電話したら、
「今下にいる!」と言うので、「早く来て」と言いました。

お母さんが病室にたどり着いたとき、おばあちゃんはもうだいぶ不安定な状況になっていました。
血圧が深夜からもう測りづらくなっていましたがこの頃にはもう完全に測定できず、心拍数もどんどん下がっていきます。
しばらくすると、もうアラームが鳴りやまず、ナースコールをしようとしたんですがそこで、母は、「もう、いいよ」と私を止めました。

今日のこの記事の写真はそんな時に撮った、3人で過ごした最期の写真です。
鳴りやまぬアラームと、私と母の嗚咽の混じる声と涙、ありがとう、お疲れさまでした、本当にありがとうの言葉。
すごく大切な時間でした。0になった瞬間も、写真に収めています。
眠るように最期、おばあちゃんは、人生を終えていました。

まだあったかい。全然まだ、体温がある。
心臓の音は…しなくなってしまった。

しばらくしてお医者さんが確認をしに来ました。
それが、4月14日 6時44分。
ご臨終です、とのお医者さんの言葉で私は、ああ、本当に本当に…
本当にもうおばあちゃんの声聞くことないんだ…と思いました。

お寺さんのところへ

そこからはお葬式の準備などに追われ、訳が分からない感じで、人の死というのは…こんなにあっさりすぐまるで処理のように…と思ったのを覚えてます。
おばあちゃんが生前にお金を払っていたところから車が来て移動されたのですがその後お墓のお寺さんと式場が喧嘩をし、結局その式場は使えなくなりました。
おばあちゃんはまた、1日後に大移動をして、お墓のお寺さんのところまで運ばれました。だけど、お寺さんにあずかってもらってよかったと安心しました。
個室の、和室のきれいなところに和布団で静かに眠っているおばあちゃんをみたら私は安心しました。
あっ、家とおんなじ感じだなぁ、良かったぁと。
式場のはまるで箱に入っているようで私は嫌な感じがしてしまったので本当に良かったです。

お葬式までもバタバタ身内で色々ありましたが、長くなるんで割愛。
お葬式の日は、ずっと始まる前からおばあちゃんの近くにいました。
死に化粧も同席し、口紅は私のイブサンローランの口紅を塗ってもらいました。また、髪の毛の一部も、もらいました。
おばあちゃんの大好きだった豆大福とすあま、そして私の手紙を最後に入れて式を終えました。
終わって火葬場に行くときも、霊柩車に乗って、写真を持って、おばあちゃんの横にいました。
ずっとこのままだったらいいのにな、と思ったりしましたが、現実はそうもいかないです。
火葬場に到着し、久しぶりに匂った独特な香りに、本当にさようならだあ…と実感しました。
棺桶を入れる時ももう涙が止まらなくてしょうがなかったです。
ご飯…どころじゃないと思ったけど食べないとだから、食べました。
そして生身じゃなくなってしまったおばあちゃんと対面して、
あぁ、もう、もう、本当に私の大好きなおばあちゃんいないなぁ…と
切なくてもう、どうしたらいいかわかんなくてただ涙が止まらない状態でした。

おばあちゃんの遺灰をもらうつもりだったので、一部ここでいただくつもりだったのですが、火葬場ではダメとのことで後ほど、お墓の前でやりました。その時に、おばあちゃんが大好きだったおじいちゃんの壺も、墓石やさんにお出しいただき、おじいちゃんの遺灰も少しいただきました。
二人ともとても骨がしっかりしていて健康的でした。
おばあちゃんに至っては入りきらないくらい…
墓石屋さんが、別に、すごくお金かけて納骨用の入れ物を用意する必要なんて、ないんだからね、気持ちだからね!と教えてくれたのが最後すごく、印象的で、ほっとしたのを覚えています。
このとき何に入れようか、ずっと考えて色々見てたのに決められなかった。

今は、和紙で綺麗に納骨し、それをガラスの瓶に入れて大切に保管しています。たまたま都内で散歩していた時に、東大の近くにあるビンテージ本屋さんで昔の切符を売っているのを見つけて、上野の切符と、おばあちゃんの親戚の町の切符が唯一あってびっくりしたのでそれも買って一緒に入れています。おじいちゃんは何かまだ入れてないんだけど、おばあちゃんの横に一緒に並んでいます。

どう締めたらいいかわからないけど、これが、わたしとおばあちゃんのお別れでした。でも、おばあちゃんはずっと私のそばに今もいると思います。
本当に大好きで、大好きで、大切な人です。一生それは、変わらないです。
今まで本当に、心の底から、無償の愛を私に注いでくれてありがとう。
おばあちゃんなしでは私はここまで成長することはできなかったです。
おばあちゃんに恩返しできるように、
頑張って、生きていきたいと思います。
たとえどんなにつらくても、なんで生きてるかわかんなくても。




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