汚い世界と向き合うこと、向き合わない強さ
世界は汚くて残酷だ。今日も世界のどこかで人が殺されているだろうし、殺されることを怯えて生きている人もいるだろうし、その一方で黒い商売で儲けたお金の捨てる場所を探している人間もいる。
大学1年目、友達が住んでいるセブ島に遊びに行った。セブの生活に混じってみると同時に、友達の知り合いが運営しているセブ島ボランティアの活動に飛び入りで参加させてもらった。
そのボランティアのプログラムに参加している人たちは、同じ年代の大学生がほとんどであった。セブ島の貧困地域に行って、feedingと呼ばれる炊き出しを行ったり、子供達と遊んだりする。
もちろん国際協力という名の下、貧困地域に食糧を届けている、という建前であるのだろうが、当時の私は、貧困地域とそこに生きている人たちを”貧しく困っている”とラベリングし、その人たちを助ける、そして助けながら貧困について自分の目で見て何か大そうなことを考え/感じてみる、という大義名分を持って、参加者とそして世界にとっても有益なことを生み出しているように打ち出した、先進国のエゴの塊をビジネス化したものだと思った。
自分自身参加してみて、この傲慢で、資本主義に囚われた商売を醜く思ったし、これが世界中で行われていると思うと胸糞悪い。とーても胸糞が悪い。
SNSの普及で、今まで見えていなかった他人の生活が携帯の中に現れ、一人一人バラバラであった幸せの統一規格が現れるようになった気がする。国や文化背景で微妙に変わってくるが、旅行し、美味しい(高い)ものを食し、新しい体験をし、良い(高い)ものを身につける。
もちろん、その外の世界の汚さに反対する気持ちと行動するエネルギーは、健やかなくらいには、持っていたい。けれど、その日々目まぐるしく変わっていく、そして他人の幸せの統一規格に当てはめて自分の幸せを測ってしまうのではなく、自分の感情を自分なりに解釈し、評価(evaluate)し、感情を持ち、それを言葉にする。そんなプロセスを幸せの評価の揺るぎない第一ステップとして持って、その次はそれを周りの友人や家族と共有できるような、そんな優しさと強さを持ち合わせていたいと思う。
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