見出し画像

木漏れ日、線香、麦茶、きゅうり。

木漏れ日。蝉時雨。線香。湿った菊の香り。
墓地は夏の匂いに満ちている。花を包むビニールがパキパキと新鮮な音を立てる。蝋燭の炎は夏風にくすぐられて、ちらちらと揺れている。陰湿とか侘しさとか、墓地というとそういうものを連想しがちだが、夏の墓地はそれとは無縁に思える。家族のざわめきが聞こえる。人の思いが籠る場所というのは、不思議と温度が高いような気がする。

お墓の前で、私は両手を合わせる。心の中で挨拶をする。そこにいるのかもしれない祖父や祖母に、会ったこともない名前も知らぬ先祖たちに。お元気ですか。私は元気にやっています。自分でも律儀だと思う。近頃どうしているのか、大学にはいつ戻るのか、当たり障りのないことを報告してみる。父はそんな私を偉いと言う。神様とか幽霊とかご先祖様とかを、私は都合の良い時は信じるし、都合の悪い時は無いものにする。占いと一緒だ。釈迦は霊魂の存在を否定しているし、ただの慣習と言われればそれまでで、私は別にスピリチュアルなタイプでもない。それでも私は、子綺麗に手入れされたその墓石に、無意識のうちに語りかけてしまう。隣で手を合わせている父や母や妹には聞こえなくとも、墓石の主には私の声が聞こえていると、確かにわかる。

好きな季節を聞かれたら、春か秋だと答える。夏はむしろ嫌いな方だ。寒ければ着込めば良い話だが、いくら脱いでも暑さには敵わないから。それでも、夏は一年で特別な季節だと思う。透き通った麦茶。きゅうりの水滴。どろどろに溶けたアイスクリーム。こんがりした肌。金色に光るとうもろこしの一粒。キンキンに冷えたコンビニエンスストア。ビールの汗。蜃気楼のゆがみ。

夏という言葉そのものに生命力が宿っているのかもしれない。夏、なつ。重たすぎず、丁度良い湿り気で、すっきり、ぱっつりしている。最近やたらと生きていると感じるのは、人間が植物や動物とおんなじだからだと思う。夏の雲はダイナミックだ。思わず手を伸ばしたくなるような、入道雲の立体的な造形と奥行き。差し込んだ日の光が何層にも折り重なって濃淡を作り出している。それは風と、光と、時間と共に、刻々と移り変わってゆく。切り取って箱に入れて、大事に大事に取っておけたら良いのにと思う。モネとかルノワールとか、ずっと昔の印象派の画家たちの夢。でもその手の届かない雄大さがきっと、夏を特別にしているのだろう。夏は高嶺の花なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?