見出し画像

旅支度

美容室に行った。美容室は私を清潔な気持ちにさせる。シャキシャキとリズミカルに動く鋏の音。つんと鼻を刺激するカラー剤の匂い。伸び切って質量の多いたっぷりとした黒髪が、コンクリートの床に無惨に散らばる。かつて私の一部だったものの残骸。私の体はぎこちなくシャンプー台に収まっていて、柔らかく透けた布の裏側を見つめている。人に苦労をかけるのが嫌いだから、頭を完璧な角度のまま保てるように、頭の重さを預け過ぎないように、細心の注意を払う。その努力が身を結んでいるのか知る術はない。

したくもない旅支度をしている。私はいつもギリギリまで荷造りを先延ばしにするから、決まって母に叱られる。一年分の生活が詰まった重たいスーツケースが夏の終わりを告げている。帰りたくないと思っている自分がいて、いつのまにか実家以外の場所が帰る場所になってしまっていることに気づく。

江國香織の「ウエハースの椅子」を読んだ。幸福と絶望というのは表裏一体で、たっぷりの幸福はいつも絶望の気配を秘めてやってくる。誰かと一緒にいる時の方が寂しく感じることと同じだ。それはウエハースで作る椅子のように脆い。人は心の奥底に、すべての言葉や行動や考えの源を持っているのだと思う。源の成分は人によって違っている。希望とか、絶望とか、怒りとか。それは私たちの会話の節々に、仕草の一つ一つに顔をのぞかせる。どんなに取り繕っていても、ないものにすることの許されない原石がそこにはあって、私たちはそういう矛盾と付き合って生きていく。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?