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あの夏のざるそば

私は、幼いころから蕎麦が大好きだった。
うどんも好きだけど、選べるなら絶対に蕎麦。
同級生は圧倒的にうどん派で、蕎麦好きは少数派だったけど、それでも私の蕎麦愛は揺るがなかった。

両親も蕎麦好きなので、近隣県に美味しい蕎麦屋があると聞いたら、家族で食べに行くほど。近隣県の有名な蕎麦屋は、大体食べに行っていると思う。

そんな家族の影響もあって、私は蕎麦愛に満ちた人生を送ってきた。

十数年前の夏のある日、当時つきあっていた彼とドライブに行くことになった。
行先は長野県。
私が蕎麦好きなのを知って、蕎麦の名所である長野県へ連れて行ってくれるという。
しかし、蕎麦屋の情報はあまり知らないらしく、店選びに難航していた。

そこで、我が家が長野で行きつけにしている蕎麦屋に、彼を案内することになった。

当時車を運転しない私でも案内できるほど、家族で何度も通ったお店。

このお店以外に、場所が分かって案内できる店がなかったというのもある。
それでも、このお店の蕎麦の味は、誰にでもおすすめできる自信があった。

迷うことなくお店にたどり着き、店内へ。

「いらっしゃいませ。お2人ですね。こちらの席へどうぞ」

案内された席につき、さっそく天ぷらざるそばを注文した。

そば茶を飲みながら待っていると、お待ちかねの蕎麦が運ばれてきた。

均等に細く切りそろえられた、二八蕎麦。
冷水で締められたばかりの麺は、つやつやと輝く様子が美しい。

「こんなきれいな蕎麦、見たことがない」

彼がぼそっとつぶやく。
それほどまでに、見た目でまず私たちは魅了された。

写真を撮って、さっそくいただいた。

あぁ、いつもの通り。香りもよく美味しい。

安堵しながら、そっと目の前の彼を覗き込む。

彼は嬉しそうに、無言で蕎麦をすすっていた。
付き合い始めてわかったことだが、この人は本当に美味しいと感じた時は、黙る。まさに今、静かに蕎麦をすする音だけを響かせて、真剣に蕎麦と向き合っていた。

よし、気に入ってくれた。

彼の様子に満足した私。
いつの間にか、1年ぶりに食べる蕎麦に夢中になっていた。

すると彼が言った。

「それにしてもホント、美味しそうに食べるね」

しまった。
蕎麦と真剣に向き合っていたのは、私のほうか。

そんな自分に気づいて、耳がカッと熱くなった。
それでもそのまま、蕎麦をすすり続けた。

本当に美味しいものの前では、言葉は無力だ。
静かに蕎麦をすする音だけが、2人の間に流れた。

まもなく食べ終わるころ、彼が話し始めた。

「実は、うどん派だったんだよね。でも、今日この蕎麦を食べたら、蕎麦のほうが美味しいと思ったよ。だから、今日から蕎麦派になる」

うどん派だった彼を鞍替えさせるほど、美味しいお蕎麦。
私は心から、彼をこの店へ連れてきてよかったと思った。

「お待たせしました。天ざるです」

今年もまた、この店にやってきた。
相変わらず、つやつやと美しい蕎麦。

やっぱり、ここのお蕎麦は香りよく美味しい。

満足していると、目の前に座った彼が、あの時と同じように私を見て呟いた。

「それにしてもホント、美味しそうに食べるね」

そういうと、夫は自分の天ざるを、あの時と同じように、笑顔で黙々と味わった。

今年の蕎麦も、格別だった。

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