漫画みたいな毎日。「楽しまなくちゃじゃない。楽しいんだ。」
楽しんできて!
そう声を掛けられることは、ちっとも嫌ではないし、祝福も込められていると思うので、ありがたい、嬉しいな、と思うことが殆どだ。
自分以外の誰かが、「自分で積極的に楽しもう!」という姿勢は、そういうスタンスもあるよね、うんうん、と思って眺める。
ただ、私の中で、「積極的に楽しもう」と自分自身が努力したりする事には、ちょっと違和感が湧き上がってくる。
楽しもうという姿勢を自らに課すと、時にそれを私は、自分自身へのプレッシャーとして感じてしまうようなのだ。
ついでに言うなら、同じ場にいる誰かに、「楽しもうよ!」「楽しまなくちゃ!」と声を掛けられるのも実は苦手だ。あまりに執拗にそのように声を掛けられると、苦手を通り越して「それって義務なの?」と、ブラックな思考が繰り広げられることさえある。勿論、それを表には決して出さないし、「私は私で、好きにしたい。」と思うだけだが。
単に、天の邪鬼なだけなのかもしれないけれど。
単に、気難しいだけなのかもしれないけれど。
何故、楽しもうよ!という積極的な姿勢にプレッシャーのようなものを感じるのか?ということを考えていくと、〈楽しいこと、というのは、何があってもなくても楽しい。〉と思っているからなのだと思う。
人の意識とは、自分が自発的に、意欲的に、「楽しもう」という気持ちを越え、いつの間にか「楽しまなくてはならない」になってしまうことが割りと多い気がしている。
それは、楽しむことに限らず、人が何かに取り組む時に、「〇〇したい」はいつの間にか、「〇〇すべき」に置き換わってしまっていたりする。
そして、ただの〈楽しい〉から、〈楽しむべきでしょ?〉と自分以外の人に知らずに強要してしまうこともゼロではないということを、実際に今までたくさん見てきたし、そういう場に居合わせてきた。
加えて、私は楽しむのが下手だ。
これは、育ちにも深く関わっているのだろう。休むことと、楽しむことが上手くない。
休むことへの罪悪感というものが、染み付いている。
楽しむことへの罪悪感というものが、染み付いている。
これは確実に親から受け継いだ負の連鎖だと思っている。
休んでいると、「ダラダラしている」と言われ、病名がつかないような「疲れ」は「怠けである」とみなされる。
外でも家でも自分だけが楽しいことをしているのではないだろうか?と、何処か、いつも幸せそうには見えない母親への罪悪感に苛まれていた。
せっかくチケットを手に入れたアーティストのLIVEの直前になり、行きたくなくなり、ドタキャンするなんてことも珍しくはなかった。
楽しむことが、怖く思えてくるのだ。
実際にLIVEに行ったとしても、「楽しい!」と味わうことができず、頭の中で、明日の試験のこととか、仕事の算段のことを考えていた。そりゃもう、楽しいの「た」の字も感じられなかった。
わぉ!!なんてこったい!!ありえない!
モッタイナイ!!!!
と、今だから思う。
なんで楽しいを享受しなかったのよ!私は!
と。
親と言われる立場になって、我が家の子どもたちが、漫画を読んで楽しそうに笑ったり、ダラダラごろごろしているのを見ていても、楽しそうで何より、と思う。
何をしても身体全部から〈楽しい〉が染み出す様子が好ましいと感じている。
好きな場所へと出掛け、新しい体験をして嬉々とした様子で、帰宅すると、その姿に心の底から喜びを感じる。
思い返してみても、今まで、子どもたちから、「楽しもう!」「楽しまなくちゃ!」というものを感じたことがない。
ただ、〈楽しい〉がそこにある。
それを彼らは身体全部、全部の感覚を使って味わっているのだと思う。〈楽しい〉とは、受動的でも、能動的でもない気がしている。〈楽しい〉とは、ただそこに在るんじゃないだろうか。
そこには義務感もプレッシャーもない。ただ、受取るだけで、感じるだけで、いいのかもしれない。
山の上のブランコに乗っていても、
スキーをしていても、
近所の散歩の途中でも、
子たちがじゃれ合う時にも、
何気ない会話に盛り上がる時にも、
黙っている静かな読書時間も、
子どもたちの〈楽しい〉は、いつだって、そこら中に溢れている。そこにも、ここにも、楽しいが在るのだ。
子どもたちの居る場所は、何処であっても、〈楽しい〉は泉となる。私のまわりも、あなたのまわりも、〈楽しい〉が湧き上がっている。
「楽しもう!」と意気込まずとも、〈楽しい〉は、いつだって、私と共に在る。何処にも逃げては行かない。だから、安心して私は〈楽しい〉を、身体全部で、ゆっくりと、存分に味わおうと思っている。
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