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僕の虐待の内容と影響「18年間の地獄」

地獄」という言葉から連想されるイメージはなんだろうか。

たぶん、激しい感じで、炎に焼かれたり、窯でゆでられたり、針で刺されまくったりする。

一方で、僕のイメージは、真っ暗闇で、何の音もせず、誰もいない、そんな場所のことを「地獄」と呼んでいる。

今回ぼくは、ほぼ初めて自分の虐待経験について公開するが、それはまさに地獄だった。

当時はそれが当たり前だったから、あまり自分で”これ”が何なのかよくわからなかったけど、大人になればなるほど、”あの時”を思い出すと「あれは地獄だった」と強く、強く感じるようになった

今年、30歳になった。これから一歩さらに踏み込んでいくためにも、過去にある程度区切りをつけたい。ビジネスに影響がないように、先に書いておくと今はちゃんとした人格で対人関係を築けているので心配しないでほしい。

このあとにも書くけど、もちろん僕の経験以上にひどい経験をしている人を知っている。だからこそこれまであまり自分の経験を公開してこなかった。そういうクセがある

この記事を親が見たら間違っているのかもしれない。嘘や思い込みなのかもしれない。そう思って自分の主観を書けないクセがある。

でも、これもやっぱり最近大人になってだんだんできるようになってきたのは、自分の主観をもっと強調してもいいのだ、それがかなり重要なのだ、ということ。(資金調達で投資家に過去の経験を話し始めてから思うようになった)

だからただありのままを公開しようと思う。

※あと貧困対策NPOの調査報告書や、貧困ルポ本、ドラマなどに触れて、「あれ、これ自分だったじゃん」と気づかされることも最近は多く、ある意味「特別な経験」だったのかと思えている。

幼少期から小1まで、「父親による暴力」

まず幼少期から小学校4年生までのことを書く。ただ生きていただけの期間だ。

ぼくは千葉県の田舎で生まれて、とても静かな場所の一軒家に住んでいた。

今でもはっきり覚えているが、朝、ぼくは玄関のドアの鍵が閉まる音で起きる。おそらく親が2人とも仕事に出かけたのだと思う。保育園に通っていた期間もあったと思うけど。

だから昼間はラップで包まれてテーブルに置いてあるご飯をたべて、テレビを見ながら過ごす。

夜になると母親が帰ってくる。さらに時間がたって父親が帰ってくる。

そうするとだいたい言い合いをしている。母親がたぶん当時では珍しいほうの気の強いタイプだったのもあるのかもしれない。

日によっては皿が割れる音がする。日によってはそのままどちらか、両方が家を一時的に出ていく。

強烈に記憶に残っているのは、一人で泣きながらシャワーを浴びていたこと。あと何か僕が悪いことをしたのか、冬の夜の寒いときに玄関の外に放り出されていたのも覚えている。星がきれいだった。

たぶん大きな転機だったかもしれない記憶がある。父親が仁王立ちでたっており、母親と母親に守られる僕がしゃがみこんでいる。たぶん母親が殴られていた

そして別居となり、母親と(急に登場する)母親の彼氏とで、東京のアパートに引っ越してきた。小学校1年生の夏休みの終わりのころ。たぶんこの後に離婚している。

ただこれですべてが片付くわけではなかった。第1次虐待が暴力編で、それが終わっただけ。母親の彼氏はごみ屋敷のような部屋で、母親と一緒に新興宗教にのめりこんでいた。(当時はそれが新興宗教だなんて分からなかった)

小2から小4まで、「自傷行為と夜尿症」

1日のなかで母親は仕事であまり家にいなかった。客観的に言えばいわゆる「母子家庭」だったので、お金を稼ぐためには仕方ないことなのだろうけど、当時の僕は寂しくて寂しくてやばかった

平日だけではなく、土日も新興宗教の活動で路上活動をしていたり、なんだか大規模なイベントに参加するとかで、1年に3回ぐらいそのたびには母親抜きで母親の実家に2時間&乗り換え3回の電車で預けられに行くこともあった

たしか小学校3年か4年ぐらいのときに、もう我慢ができなくて、泣きながら母親に対して「寂しいよ」と訴えた記憶がある。しかし状況が改善した記憶はない。

たぶんこれを「ソフトなネグレクト」と言うのかもしれない。ハードだと完全放置で餓死するので。

僕は学校が終わると学童に通い、暇な時間は最初のモデルのゲームボーイでポケモン緑をひたすらやっていた。なぜかマダツボミをめっちゃ育てて80レベルぐらいまでになったのに、ある日突然データが消えて、号泣した記憶がある。

ゲームがすごく上手いほうだったので、公園や友達の家でゲームをしていた。攻略本や、当時のヤフーで攻略サイトを検索していたりした。プロアクションリプレイというハッキングツールをつかって、ポケモンをバグらせて遊んでいた。

そのおかげか、最低限は友達がいた。だから友達の家にいくことができたけど、そうするとカルチャーショックを受けた友達の家は、お菓子が出てくる、たくさんのおもちゃがある。ここから自分の家に疑問を持ち始めた。

小学校2年生からすでに2歳上の人と遊ぶことが習慣になっていた。最初は友達の兄。そしてその兄の友達とゲームセンターで遊んでいた。

お腹がすいたら近くのスーパーにいってひたすら試食コーナーで試食する。これが結構おいしかったのでかなりお世話になった。朝ごはんはあまり食べてなかった気がする。

そんな生活をしていた。つまり言いたいことは、母親とコミュニケーションをとっていた記憶があまりない

小学校3年か4年のころ、授業中に自分の髪の毛を抜いていた。この時の気持ちは”無”だったけど、あとから調べてみるとこれは自傷行為の一つで、ストレスを解消していたらしい。

それに加えて、夜のおねしょはかなり長く続いた。専門用語で夜尿症と呼ぶ。これも僕にとってはストレス解消で、寝ているときにおしっこをすると気持ちがすっきりした。

栄養不足だったせいか、口周りがかゆくなったり口内炎がよくできていた。

さらに中耳炎にもなっていた。この原因がストレスなのかはよくわからないけど、当時よく耳の穴に指を入れていた記憶がある。

規範意識(ルールを守ろうと思う気持ち)は低く、小学校にゲーム機を持ち込んで、屋上で休み時間に遊んでいたら、先生に怒られた記憶がある。

仮病でよく学校を休んでいた(準不登校)。学校にいったと見せかけて、母親が仕事に出ていくのを見張り、出て行ったあと公衆電話で学校に自分で休みと伝えて、家で教育テレビや笑っていいともを見て過ごしていたり、ブックオフでひたすらマンガを立ち読みしていたりした。

小5から中3まで、「暗い性格といじめ被害」

大きな転機になることが起きる。小学校5年生の冬、学校から一人で帰るとき、急に頭のなかで「ブチン」と何か糸が切れた音がした。例えではないけど、原因は分からない。

でもここから親に対して一切期待しなくなった。「期待」というのは母親に対して「~~してほしい」という感情を持つことだ。それが一切なくなった。

真っ暗闇で、何も音がしない、誰もいない空間を当たり前だと感じるようになって、その中で生きることを決めたように感じる。

当時ちょうどナルトのアニメが始まった。登場キャラの一つにサスケというクールなキャラがいた。サスケは兄に家族と一族を殺されて復讐するという背景をもっていて、すべてに対して冷たい気持ちを持っていた。我愛羅(があら)というキャラもいた。これもなかなか冷たいキャラだ。

ストーリーでは主人公のナルトがこの二人を救っていくのだけど、ナルトにはあまり共感せず、サスケと我愛羅に共感していた。

母親は引き続き仕事で忙しい。夜帰ってきても、自分の部屋でお酒を飲みながらパソコンを見ている、という姿がとても記憶に残っている

しかも最悪なのが酒癖が悪い。この時に怒らせると本当に面倒で、「お前なんか産まなきゃよかった」「嫌ならご飯たべなくていい(捨てられる)」「嫌なら家から出ていけ」と言いたい放題。つまり心理的虐待だ。

たぶん無意識下ではかなり傷ついていたのだろうけど、もはや母親に期待していなかったので、ひたすら気持ちに蓋をした。何も感じないようにしていた。

僕が成長すればするほどご飯が作られる回数は減り、だんだんお金だけが用意されるようになった。でもそのお金も足りないので、どうにかしてお金を稼ぐ必要が出てきた

小学校5年生のときに近くのおもちゃ屋さんでたまたま遊戯王というカードゲームの大会が開催されていて、そこには高校生や大学生、大人(今でいうオタク)の人も参加していて、どうやら優勝すると限定カードがもらえて、それを売ると3000円ぐらいになると分かり、それでカードゲームを始めた

最低限のカードは高校生の人に余り物をただでもらい、特に強いカードについては親のお金を盗んで買った。

もちろん親のお金を盗むことは悪いことだ。しかしこの時の感情は復讐に近かった。友達の家に比べて何もしてもらえず(愛情もなく)、日々酔った勢いで悪口を言われることに対する反抗として

小学校6年生ぐらいから素質があったのか、安定的に大会で勝てるようになり、大会の場所も近所だけでなく、秋葉原や渋谷にもよくいくようになった。交通費ももちろん大会で勝ったときのお金だ。

中学校1-2年生になると、大会以外でもお金の稼ぎ方を覚える。カードは基本的にパック売りされている。5枚1セット150円という形だ。レアカードは光っていて、実は数mgだけ重い。

当時はまだコンビニやおもちゃ屋でもパックが手に取れる場所に置いてあったので、小さめの電子測りを使って、レアカードの入ってるパックだけを買って売った。つまり150円で仕入れて、秋葉原のショップなんかだと3000円ぐらいで売れたりした。

その界隈ですごい人は小学生で月収にして10万円以上稼いでる人もいて、これを「錬金術」と呼んでいた。新作のカードが発売されるたびに、早朝から自転車で近所のコンビニを周り買いあさった。

お金ができたおかげで、カードゲーム仲間とご飯にいったり、カラオケオールできたりもした。

カードゲームからはお金以外のことも得られた。まず大会や勝負ごとで勝つとストレスがすごく解消された。このおかげで自傷行為も夜尿症もなくなった。

カードゲームで優れている人は他のことでも優れてることや、勝負事における駆け引きや戦略の立て方、努力の素晴らしさも学ぶことができた。

年上の人たちが早稲田卒とか京大卒とかの社会人もいて、学歴だけで幸せになれないことも分かった。そして何より、努力すれば助けてくれる、ということも分かった。高校生や大学生の人が本当に色々教えてくれた。

カードゲームがなければ確実に非行少年になっていたと思う。じゃないとお金と友達が手に入らないからだ。虐待や貧困の環境にいる人からすれば同級生とはまったく話が合わない。

カードゲームをやっていない時間帯(主に学校)は、常に「この世界が滅亡しないか」とか「学校にテロリストがやってこないか」とか考えていた。そういう価値観だった。

とてつもなくネガティブな性格をしていた。カードゲームで努力をするのはポジティブだったからではなく、リスクを減らすというネガティブさからだ。

対人関係においてカードゲーム仲間以外は信用することは一切なく、そのせいか中学校ではあまり同級生とつるまなかったので、いじめにあった

ただいじめは仕返しをすると無くなる。ある日、いじめの首謀者の首を後ろからギリギリまで締めたら何もしてこなくなった。(これが包丁で刺していたら僕もニュースになっていた)

学校内のいじめは社会の縮図なのではないか、という仮説を持っていた。いじめられる側といじめる側、そして傍観する人たちと、「いじめはいけないことだ!」と正義感ぶって本当にいじめがなくなる対策をしない人がいた。

いじめはこの構造から生まれるのではないか、と当時から考えていたため、いじめる側からすると僕はかなりのレアケースだったと思う。

あとで大人になって、ネガティブな性格と適切に対人関係を築けないことも虐待の影響だとわかった。

※虐待や、マルトリートメント(不適切な養育方法)によって子どもの脳は明確に形が変わることが分かっており、それによって共感能力や自尊感情が低下する。以下参考。

高1から中退まで、「強い劣等感と低い自己肯定感」

カードゲームは中学3年でやめた。お金は稼げたけど、カードゲームの勝負事自体に飽きてしまった。

高校受験の勉強は特にしていなかった。中の中ぐらいの都立高校にはいった。進学校にいけるなんて自己肯定感もなかった。ただの進学だ。

アルバイトは飲食店の調理を始めて、高校では軽音部に入るも、経験者が多くて、外部のバンドメンバー募集掲示板で見つけた。楽器はカードゲームの貯金で購入した。

母親の酒癖は引き続き悪い。「大学に行きたいなら奨学金(借金)を使って」と言われていた。だから大学は費用対効果が本当に見込めないといかないと決めていた。

当時の性格は引き続きネガティブ。カードゲームをやめたことで、同級生とコミュニケーションをとることが増えた。人の目をとても気にしていて、自分より下の人を見つけては見下し、上の人を見つけては劣等感にさいなまれていた

これによって日に日に精神的に擦り減っていく。高1の夏から1年間はバンド活動である程度精神を保っていたけど、バンド活動をやめてからはより一層早くすり減っていった。

高2の夏から今まで「頭がいい」と色んな人から言われていたのもあって、論理的に大学受験をやってみたほうがいいと思い、予備校に通い始めた。お金はアルバイトから。3か月でMARCHクラスから早慶上智クラスに簡単にあがった。まるで作業だった。

小さい頃から母親から「お金がないから~~できない」と言われていたので、公認会計士を目指そうと思った。それなら奨学金の借金も問題ないかと思った。

しかし、この時点ではもう完全に精神がもっていなかった。気持ちに蓋をするのがクセになっていたので、精神的にもっていなかったことにも気づけなかった。

だんだんと朝起きれなくなっていき、高校にもいけなくなっていき、行けても図書館で寝ていて、同級生に対しても自暴自棄になっていた。

予備校は義務感で、行かないと人生が終わる、ぐらいに思っていたけど、予備校に通う精神的な体力がなかった。毎日のように「死にたい」と思っていた

その結果、2009年1月、高校を中退した。

今大人になって思うのは、やっぱり精神的な体力のなさも確実に虐待の影響だ。結局何かに挑戦するにあたって、自己肯定感(自分は生きていていいんだという気持ち)がなければ、他人の結果と比較したり、問題にぶつかったりしたときに、「自分はやっぱりだめだ」と思ってしまう

一方で、常日頃から親から大事にされて育った人は「自分は大丈夫、できる」と思える。これは親ガチャ、格差の根本的な問題だと思う。

総じて

虐待がなければ確かにこの10年間の社会活動はなかった。虐待にもいい面がある、二面性があると、そうプラスにとらえることで精神的に回復していった。(その後の話について興味がある方はこちらをご覧ください)

しかし、それでもやっぱり虐待は受けたくなかった。普通の大企業のサラリーマンになって、毎日飲み会をし、テキトーに愚痴を言ってる人生も良かったと思う。

マイナスが大きい分、プラスが大きくなる可能性もあるけど、そのまま死んでしまったり自己肯定感がなくて何もできない人も多い。僕はその中でも運よく生き残り、現在は自己肯定感を高く保てている。

プラスが少なくても(平凡な人生でも)、マイナスが少ない(虐待がない)人生のほうがよかったと心底思う

今でもまだ症状のように残っているのは、「共感のしづらさ(=主観への弱さ)」「激しい物音に敏感&人の話が聞こえづらい」というのがある。

そのおかげか、圧倒的に論理的思考、戦略、分析力が強い。これはカードゲームで強かった原因にもなっていると思う。

ある意味で親とこの環境から学んだことは「悪い意味での自己責任」だ。世の中は、子どもですら自己責任(子どもが悪くなっても親が法的に責められることはない)だし、僕は母親が被害者だとは思っておらず、DV夫を見極められなかったという意味では自己責任だった。

この世の中はジャングルなのだ。行政も、NPOも、助けてくれない。だから生きていくうえで大事なのは、サバイバルスキルであり、それを支える自己肯定感なのだ。

当時の気持ちに蓋をしていたときの、”蓋の下”の自分の気持ちを思い返してみると、「普通の家に生まれたかった」「誰かここから救ってほしい」と感じていた。

しかしそうはならない。そうはならないことを拙著「悪者図鑑」でも書いている。だからこそ今、社会に対して強い怒りを持っている。行政に対しても、NPOに対しても、最近で言えば「社会起業家」に対しても、怒りを持っている。この原体験が社会への活動に繋がっている。


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