第8話「食欲不振な人間不信」下

 自殺未遂者達への取材をした番組がテレビ画面に映っている。自分がこういう状況になって初めて、自殺する人間を尊敬の眼差しで見る事が出来る。

 首吊り、リストカット、睡眠薬、飛び込み飛び降り、焼身と。どれ程の苦痛が伴うのかも分からないのに、そこへと向かっていく意志の強さはどこからくるのだろう。

 意志が強いのに何故死んだのだろうか。死ぬ事が出来るのなら、生きる事もまた可能なのではないだろうか。向く方向を間違えたんだろうか。一度死んでみれば気持ちが分かるんだろうが、自分には死ぬ覚悟など無い。その検証は出来ない……。

 何故自殺をするんだろう。金銭トラブル、人間関係。他はあまり思いつかない。金銭トラブルだって、元を辿れば人間関係だ。人間と関わる事で、人は自分を追い詰めていく。知らず知らずの内に、見ない振りをしている内に心を抉られていく。

 取り返しのつかない終点に辿り着いてしまった時、人は自殺という道しか選べなくなってしまうのだろうか……。

「……」

 自分としては、人間関係も上手くやってこれた方だと思うが、所詮、その場しのぎのコミュニケーションでは、社会不適合者の自分では破綻してしまった。

 精神的負担と肉体的負担を常に背負うことで、感情の泉は崩壊した。

 人に信頼されるには、まず自分が相手を信頼する事。これが人間関係を上手く作っていく第一歩だった。だが、二十歳を過ぎてからは一切その言葉を耳にした事が無い。
 信頼という表面上の、数式で言う「x」のような存在は、不明な証明で終わる。

 自分は、本当は信頼とか信用とか、本気で人間を信じた事は無かったのかもしれない。心の底から信じる事なんて出来なかったのかもしれない。

 なぜなら、裏切られた時、その構えをしている方が楽だから。どうせ人間なんてこんなものだと妥協出来るから。
 全信頼を相手に委ねることは出来ない。

 人間は疑って生きている方が許容量が増える。だから、親友も彼女も、家族も上司も、心の芯が、根本が折れないように少しの保険を掛けていた。
 だから、自分は耐えることが出来た。
 だから、諦めるという方法で心を落ち着かせることが出来た。

 それでも、精神的な苦痛、衝撃に耐えきれなかったガラス細工は粉々になってしまった。

 本気で信じて裏切られれば、その精神的な傷は一生残り続けてしまう。けれど、ある程度疑いを抱きながら信じていれば「ああ、やっぱりか」と思える。裏切られた時の傷が浅くなる。自分が傷付かなくて済む。心を傷つけなくて済む。相手を本気で嫌いになることもない。

 信じないわけじゃない、信じてはいたんだ。少なくとも表面的には信じている。ただ、心の自分は何処かでずっと疑い続けていた。

 表向きは誰の言う事でも信じる真直ぐな人間だったことだろう。しかし、裏を返せば、誰も信用せず、人間に対して呆れを抱き続けている人間失格な生き物。人間社会から隔離されてもおかしくない生き物に成り下がってしまっていた。

 でも、仕方ないじゃないか。人間なんて屑なのだから。利己的で自己中心的で、嫌な物からは逃れようと必死こいて逃げて、他人に縋って助けてもらえれば平気な顔をして歩き出す。一生の恩なんてものは存在しない。今の時代の人間に、仁義なんてものは無い。

 実に見事だと言いたい。自分の為に生きて、他人に嘘をついて、自分の為に誰かを蹴落としては、最後に自分に対してすら嘘をつく。
 そうして生き抜いて、ようやく気が付くのだ。「自分以外は信用出来ない」って。心の底から信頼出来る人間なんて居るわけないって。

 友達も、両親も、隣人も、勤務先の人間も、軽く関わった人間達全員、振り返れば信用して付き合った事なんて一度も無い。疑って、何時でも裏切られる覚悟を持って接していた。

 自分に裏があるように、他人にだって裏がある。それはつまり、その人間が得するように、自分の為に動いているという事だ。

 他人の為に本気で動く人間なんて居ない。少なくとも自分の周りには居なかった。居たのかもしれないが、それを感じることはなかった。

「……」

 頬を、水分が伝っていく。
 顔に付着していた水はもう乾いていた。
 これは、涙か……。

 悲しむ心があるのなら、まだ自分は人間を辞められないのかもしれない。諦めきれない何かがあるのかもしれない。頭が絶望しても、心が絶望しきっていないみたいだ。

 裏切られることが怖くて、相手に合わせて自分を騙して……、良いように思われたいから猫を被ってにゃーにゃーと鳴いて……。
 それで人間関係が上手くいっているんだ。この世界で生きている人達は大したものだと思う。

 自分はもう、猫を被るのはうんざりだ。

「……」

 自分の居場所はどこなんだろう。確かに自分はここに居る。腹は減ったし、気分が悪いけれど生きている。自分の家がある。水浸しの自分がソファに座っている。

 全てを投げ出した自分がここに座ってる。

 ――――え?

 ――――なぜ?

 ――――なぜ、自分はこんな事を?


 底から浮かび上がってくる自問自答。
 不意に湧き上がる虚無感が下から這い上がってくると、全身が恐怖で震え上がった。

 零であり、無であり、絶望。沈む夕日のような淡い何か――――――

 なんだこれは……。

 死にたいじゃない。消えたいでもない。この気持ちは何なのだろう。

 人間は人間とやり取りをして生きている。

 金、物、噂、他愛の無い話、こういった色々なものをやり取りしている。恐怖心と疑念が根底にありながらも、人間はその関係を保っている。

 なら、今こうして全ての関係を断絶した自分という存在は……。今、こうして考えを巡らせている自分は……。

 誰の為にもなっていない今の自分は、何の意味も持たない存在ではないのだろうか。生きている理由を失ってしまったガラクタじゃないだろうか。むしろ、人様に迷惑を掛けて、自分の事を優先してしまった結果の今がある。

 社会人としても人間としても失格じゃないか。

 ああ、そうか。そもそも社会不適合者だと、自分で解っていたじゃないか。何を今更焦る必要があるんだ。

「……」

 視界が少しずつ狭まっていく。
 空気の抜ける風船のようにソファに身体も感情も沈み込んでいく。

 家の玄関の扉を頻りに誰かが叩いている。社会へと、人間へと、世界へと続くその玄関に、もう行く事さえ出来そうにない。身体も動きそうにない。多分ここまでだろう。

 聞き覚えのある声が遠くの方から聞こえてくる。返事をしようと声を出したが声は出ない。焦りはしない。呼吸に合わせて息を吐いただけなのだから。

 声なんて、自分の声なんて誰にも届きはしない。誰も聞いてはくれない。自分もまた聞こうとはしなかったのだから仕方がない。自業自得だ。

「……」

 頼ることが怖かった。
 信用することが不安だった。
 信じることを拒絶していたから、誰にも頼ることなんて、人の声に耳を傾ける余裕なんてなかった。
 自分は誰も信用せずに生きてきた。
 上っ面だけで人間関係を作り上げてきた。
 こんな社会に合わない人間なんて、さっさと死んでしまった方が良いんだろう。

 玄関の扉を叩く音は止まなかった。私はその音に耳を傾けながら、ゆっくりと、生きる事を諦めていった――――――

「……っ」

 ハッと目が覚めた。嫌な夢でも見ていたのか、目覚めは最悪で最低な気分だった。

 窓から漏れる太陽が目の裏側まで入ってくる。

 窓枠が自分の家のものではないことに気が付いた。

 白い部屋のベッドの上、六人用の部屋なのに自分だけが寝転んでいる。「お前は病院に居るんだぞ」と脳がそっと教えてくれた。

 窓際に見える中庭、草木が生えている中を、車椅子の患者が看護師に運ばれていく。

 人の手を借りてまで、生きたくはないものだ。

 ……いや、私がここに居るということは、あの時、誰かの手を借りて延命したということ。
 生きる事から見逃してくれれば良かったのに、何故助けた……。

 目を擦ろうと腕を上げたそこには、点滴の針が突き刺さり、自分へと養分を送り込んでいた。


 点滴のことを「勝手に人間を生かすテロリスト」と感じたのは、生まれて初めてだ。

「……」

 深い溜め息が何度も漏れる。

 もう目覚める事は無いだろうと思っていたのに、現実的な空間に戻されたせいで溜め息しか出ない。

 腕に針を刺されて栄養を貰い、辛うじて生き抜いている事に吐き気がした。食べ物を食べずに何故生きているのか、気持ちが悪い。

「……」

 パックに入った液体が一滴、また一滴と落ちていく。管を通って自分の中に入ってくる。

 ずっと前、小学生の頃にもこんな事があった。手首に怪我をして入院した。よく覚えていないけれど、かなり危険な状態だったと聞かされた。

 死にかけたのは三度目で、死のうとしたのは一回目……なんて。

 あの時は、起きた時に家族全員が泣いていて、なんだか可笑しくて笑っていた気がする。「心配したんだぞ」とか「何があったの」とか。

 本人が分かってないんだ。答えられるはずがない。

 本当に何があったのかなんて言えるわけがない……。

 幼い頃から生きる理由を、生きている意味を探していたことを話したところで、誰も信じるわけがない。
 この……生涯見つかることのない問題に、小さい頃から直面していたことは誰も知らない。

 海で起きた一件以来、生き死にの違いを再び自分で確かめようとしたことは誰にも言えない。

 そうか、私は誰かに気付いてほし――――――

「こちらです」
「ああ、ありがとう」

 部屋の前で懐かしい、聞き覚えのある声がした。

「ここか……」

 部屋の扉が開くと同時、計り知れない罪悪感と微かな恥ずかしさから、私は目を瞑って寝たふりをした。

「まだ、眠っているのか……」

 こんな屑に成り果てた自分を、自分を助けてくれたヒーローに見られるのかと思うと、自然と涙が溢れて止まらなかった。

 唯一の希望が現れたことに、背負っていた感情全てがその積み荷を降ろそうとした。

 耐えられない感情の波に枕が濡れていく。

 寝たふりをしようとしても、堪えられない想いが込み上げてくるせいで、口元を噛みしめてしまう……。

「……辛かったな」

 胃酸とは違う嗚咽に、今度は声が漏れ出ていた。

 そっと撫でてくれたその手は、今まで生きてきた中で最高に暖かいものだった。

人を変えることはできないけれど、誰かの心に刺さるように、私はこれからも続けていきます。いつかこの道で前に進めるように。(_ _)