第8話「食欲不振な人間不信」上

 一週間前、親友に裏切られたことを知った。
 ――――親友が自分のことを騙していたと知った時、そこまで落ち込むことはなかった。そして、自分が人を信じていなかったのだと自覚した。

 六日前、食べる事が少なくなった。
 ――――食べる事の意味を理解して最低限の食事になった。食べることは生きることに繋がり、それは、私にとって不必要なことだった。

 五日前、職場で胃が痛くて仕方がなかった。
 ――――何もない胃袋が可哀想になったけれど、それでも食べる気はしなかった。生への欲求は、知らないうちに消えていた。

 四日前、食べる事がまた少なくなった。
 ――――食べても食べても吐いてしまい、食べる事がよく分からなくなった。辛い嗚咽を経験し、口にモノを入れるのが嫌になった。

 三日前、親が金を借りに来た。
 ――――金を受け取ってそそくさと帰る姿を見て、親子の関係は金で繋がっていたのだと知った。血肉を分けた両親は、金によって千切れた。

 二日前、何もやる気が起こらなくなった。
 ――――ソファに座り、テレビを点けたまま一日中無心で過ごした。そして、生きる事の意味を完全に見失った。

 昨日、何も受け付けない胃のせいで食べる事を辞めた。
 ――――実際食べるのを辞めたのは二日前だったと気が付いたのは、今この瞬間だった。

 昨日の朝からずっと電話が鳴り響いている。

 友人か親か、会社の人間か。だが、電話に出る気はさらさら無かった。電話を取るくらいなら、このまま舌を噛んで死んだ方がましだと思える。

 けれど、舌を噛むのは痛い……。

 死ぬ勇気も無い私は独り、部屋の一室で絶望に打ちひしがれていた。いや、そんな格好いい言葉では飾れない。
 今ここには、薄汚い生き物が呼吸をしているだけでしかないのだから。

 ソファに深く沈み込む身体。
 座ったまま動かなかったせいか腰が痛い。体も気怠い、気分もあまり良くない。額に手を当ててみたが熱は無く、むしろひんやりしている。

 腹は何かを入れろとしきりに音を立てる。口の中が胃酸の匂いで二日前から気持ちが悪い。中身が無いのに未だに吐き気がする。

 ――――これ以上、自分は何を吐いて捨てればいいというのだろう。

 人との縁を切れば解放されると勘違いしていた。人との縁は切ったのに、向こうから手を差し出して掴もうとしてくる。

 自分は改めて、人間社会に生きているのだと実感した。

 人との縁を切り離しても、水のようなものを切っただけに過ぎなかった。切るという行為そのものが無意味だった。切っても切れない縁とは良く言ったものだなと思う。

 水を幾ら切ってみても、切り離した水はすぐにくっついてしまう。
 ドロドロとした人間関係とさらっとしている水が同じようなものだと思うと、皮肉めいていて悲しくなる。

 今の自分に残ったのは、疲労と苦痛と吐き気、それとこの身体。やる気も糞も無い。この状態で出来る事といえば、せいぜい自分の汚点と悪点を考える事くらいだろう。

 餓死するまで、脳に酸素が巡り続けるまで、身体の糖分が失くなるまで、思考の中だけは必死に生きてみよう。まず、どこで間違ったのかを考えてみようじゃないか。

 夏場、湿度の高い空気が身体から水分を奪っていく。着ているカッターシャツが汗臭い。汗はあまり臭くない方だと思っていたが、さすがに二日も入らなければこうなるのが人間……いや動物か。ひんやりとした額は汗のせいだったようだ。

 このまま風呂に入ろうか。いや、面倒だ。でも臭いのは嫌だから、せめてシャワーだけでも浴びようか。ああ、でも服を脱ぐのが面倒臭い……。

「……」

 この後は多分死ぬだけ……、別に部屋を綺麗にしておく必要も無いか……。

 ソファの前に置いてある膝丈ほどの机に頭をぶつけた。そのまま頭の方へと重心を持って行き尻を持ち上げた。両手を机に置いて、固まった膝をゆっくりと伸ばす。

 立つ事すら、今の身体は難しいのか、ただ精神的にそう感じているだけなのか。今の自分にはそれすら分からない。いや、分かっているのに、分からない振りをしている事は分かっている。

 知っているのに知らない振りというのは、人間同士の繋がりみたいでとても残酷なように思う。騙して騙され欺き合って、外面だけは厚塗りされてしまって他人の深層までは辿り着けない。

 人間の皮は、とても、とても分厚かった。

 ふらりゆらりと、何度か壁にぶつかりながら風呂場へと向かう。
 壁に手を当てる事すら面倒で肩からぶつかっていく。歩いているとどこかの骨が軋んで音を鳴らした。
 パキッと膝と肘が鳴った。骨が軋んで音が鳴ったところで大した痛みは無い。

「……」

 もし、人との関係も軋むほど近くに感じられたのなら、自分はこうして、独りで居る事も無かったのかもしれない。まあ、今更後悔する気も無いけれど。

 あぁ、熱い風呂にゆっくり浸かりたい気もするが、浴槽を洗って湯が溜まるまで待つのは嫌だ。それまで身体が持つかも分からない。

 シャワーだけで我慢しよう。

 服を脱がなければならないが、ボタンを外す作業も面倒臭い。誰に見られるわけでも、誰かが家に来るわけでもないんだ。世間体を気にして過ごす事はもう辞めよう。

 いや、そもそも世間体という言葉は何のために存在しているのだろうか。

 周囲を気にするという宣言、周りの人間に歩幅を合わせる二人三脚、出る杭を打つための記憶への刻印。

 そう考えていくと、嫌な笑みがこぼれていた。苦笑してしまうくらいに、自分は社会不適合者だ。

 水が目に直撃するのを避け、俯くようにしてシャワーを浴びた。土砂降りの雨に打たれたように、頭から体に水が染みていく。服が体に張り付いていく。皮膚からへばり付いた汚れが流されていくような感覚を覚える。

 思い返してみれば、いつの間にか身体だけじゃなく、心も汚れていた。
 洗い流す事の出来ない、漂白されない心の汚れは、何時からこんなに汚れていたのだろう。

 滴り落ちる水に心の汚れは見えない。洗い流せない汚れたこの心は、どうすれば綺麗に出来るんだろうか。誰かと接した分、人間として成長はしたけれど、人としての心を失くしてしまったような気がしてならない。

 人間社会に心を洗われて色落ちしたのかもしれない。
 色褪せた真白な心は、会社の為に働くプログラムを埋め込まれてしまい、ロボットのように毎日を仕事に費やされたように感じる。そう思うと、今こうなる前から、自分は既に人を辞めていたのかもしれない。

「……」

 身体は存在しないはずの何かを吐き出そうと嗚咽を促した。胃酸が食道にべたべたと這いずっては口から出ようとする。空腹も限界のようだった。

 胃に何かを入れる為、目の前からとめどなく溢れる水を飲み込んだ。
 口の中に広がる胃酸の匂いも再び胃の中へと押し込んだ。これでもかと押し流した。胃の中へと久しぶりに物が入ったせいか、中に入った水が揺れているのが伝わってくる。

 たぷたぷと腹の中で鳴る擬音語が、自分ではない何かが住み着いたように思えて余計に気持ち悪くなった。

「……」

 何もかも変わってしまった。大人になっても変わらないと思っていたのに、二十歳を過ぎた頃から段々と景色が変化していった。

 汚れた者も見慣れている方だと過信して、自分は不変だと信じ込んでいた。理性の箍が外れる人間は、自制心が足りていない人間の成り損ないだと馬鹿にしていた。
 でも、どうだろうか。今こうしている自分は、自制心を失って社会から逃げ出した自分は、人との関係を保つ事が出来ないと怯んで逃げ出した自分は……。

 ――――死ねたら楽なんだろうか。

 そんな思考が頭を何度も通り過ぎていく。

 思えば中学生の時にも、高校の時にも死のうとした。
 あの時も、「世間体」という何か得体の知れないものに邪魔をされて「死ぬ」という行動をとらせないように思考させられた。

 自分の自殺は他人に迷惑がかかる。生きてても苦、死んでも苦、本当に嫌な世界だと知り得た。

 人間という生き物は基本的に他人に興味を見せない癖に、いざ、何かが起きると電灯に集まる虫の如く群がり始める。

 『誰かが何をしようが私には関係ない』と、表面上に浮かんでいるその文言は、虚偽申告でしかない。
 人間は結局、他人を気にして生きてしまう。
 「世間体」という魔物が、得体の知れない何かが、人間を操っているに違いない。

「……」

 シャワーを止めず風呂場を後にして、再びソファへと深く座り込んだ。
 風呂場から連なる水溜まりとは結構粋なものだった。さながら、人生に疲れた映画の主人公みたいじゃないか。

 まあ……実際には、社会から逃げ出した屑が独り、水浸しで自室に立て籠っているだけなのだから、実話なんてものは大抵、泥の付いた子どもの落書きのノートと何ら変わりないのかもしれない。

 過去の偉人達も当時の人間からすれば異質な存在だったのだから、周囲からすれば社会に適合しない変人と蔑まれていたんだろう。
 世界に違和感を感じるのがそんなに悪いことなのだろうか……。

 人間の外枠にはみ出ることを、人間は良しとしない。「苦しい時は何時でも一緒」なんて、他人を自分よりも前に行かせない為の足枷にしか過ぎない。人間は極めて卑怯な生き物だ。

 人との付き合い方や、どうすれば丸く収まるとか、何をしていれば正解だったのか、とか。
 人生には説明書が無いから分からない、分からないんだ。

 社会で生きるという行動をどうすればこなせるのか、飽和した感情が爆発した結果、自分は今こうしている。
 世界から逃げ出してしまった。耐え切れなくなって社会から逃げ出してしまった。人間や社会から逃げ出した今でも尚、生き方の正解を教えて欲しいと切に願う。

 独りで考えるにはもう、臨界点をとうに超えてしまっている……。

 この結末に至るまでに色々自分でも実践してみたんだ。でも、例え誰かに優しくしても、本物の……真の感謝は帰って来てくれなかった。
 善意はそのまま独り歩きを続けてしまい、自分の元に戻ってくることはなかった。そう、あの出来事以来、自分は人間が怖くなってしまった……。

 親切にしてくれた隣人が陰では悪口を漏らしていた。優しく教えてくれた上司は別の部署で自分の愚痴を零していた。親友は借金の肩代わりを押し付けてきた。付き合っていた彼女は親友と思っていた相手と駆け落ちして消えた。ついでに、一緒に暮らしていた家から金目の物は消えていた。親友だった人間の借金を返し終わったあと、親が金をせびりに来た。

 唯一、信頼していた人も疎遠になった。連絡先も分からず、今となってはどこで何をしているのか分からない。

 こうして心が独りになった。見捨てられたんだと勝手に悟った。この世界では誰も頼れないのだと決めつけてしまった。

 他人への想いや情が、如何に無駄なのかをこれでもかと思い知らされた。出来る事なら、人間なんかに生まれたくはなかった。
 こんなに苦しい思いをするなら、ここまで生きてこなければ良かった。

 ただ、何時でも死ぬ機会はあったのに死ねずにいたのは、社会という雁字搦めの蔦が身体中に巻き付いてしまっていたせいだろう。

 人間は想像以上に醜い生き物だった。今こうして生きている自分自身のことも、大変醜く思う。

 死にたいと願ってはいても、心の奥底では誰かが助けてくれるのではないかと、微かな希望を抱いてしまう。
 もう誰も信じないと強がってみても、今までの苦痛な出来事は全て嘘で、大きなサプライズイベントではないのかと、ほんの僅かな夢に縋る。
 あり得ない希望的観測を胸に宿してしまう……。

 人間とは、なんと哀れな生き物なのだろう。
 「眼前には絶望しかない。希望は捨てよ」と脳が命令しても、心は一ミリにも満たない希望を捨てようとはしない。極めて滑稽で、哀れで、惨めだ……。

「……」

 少しだけ、眠ろう。

 思い出したくもない記憶を思い出したせいで身体が震える。体をソファの上に転がして、カーテンから漏れる太陽の光を、腕で覆い隠して視界から防いだ。

 ひんやりと冷たい空気が感じられる。足元にはじわじわと水溜りが出来ていく。鳴り続ける携帯を足で踏みつけていると、そのうち鳴らなくなった。

 昔、窮地を救ってくれたヒーローのような存在が居た。小さい頃、海へ遊びに行った時、浮き輪に摑まって燥いでいた自分は、知らないうちに沖の方へと流されていた。

 砂浜の方では家族や知らない人間たちが楽しそうにしていた。
 その光景を見た時、「ああ、きっとこのまま忘れられてしまうんだ」と、「自分の存在は無かったことにされるんだ」と思った。

 心臓を鷲掴みにする死の恐怖と、遠くに見える楽しそうな光景は、生と死の境界線のように感じた。

 せめて、浮き輪から手を放しちゃいけないと決心しても、力んだせいで段々と力が弱まっていく。気を抜いた一瞬で浮き輪から手が滑り落ちた。

 溺れた時に飲んだ海の水は、塩辛さなど感じず、あの世に行くために作られた水なんだと思った。生き物はこうやって土に還るんだと身を持って体験した。

 溺れいく視界に、ぼやけた太陽が見えたのを最後に、自分は気を失っていた。

「……おい…………おい……大丈夫か」
「……っ」

 懐かしいその声に、ハッと目が覚めた。眠りに落ちる瞬間とは、何故こうも分からないものなのだろう。

 起きたのは砂浜ではなく自分の部屋だった。水を浴びて寝たせいなのか、昔のトラウマが蘇ってしまった。身体はトラウマによる恐怖と多少の寒さで震えていた。

 頭の上に乗せたままの右腕が異様に重く、腕を自分の力で下ろすのが難しい。頭から少し浮かせるくらいなら出来るかと思ったが力が入らなかった。

 顔を右へと回し、腕をずるずると垂れ落とした。ああ、当分この腕は動かせそうにない。いや待て、足も動かない。だが、胴体は転がせる。ソファからずどんと落ちた。

 こうしてだらだら動く動かないと判断するのは、勝手に脳の制限が働いてしまうからだ。本当は自由に動かせる。出来ないと思うだけで、やってみれば出来る。限界を設けるのは自分なのだから、その設定を変更出来るのもまた自分しかいない。

 人間は、人にも自分にも、すぐに壁を作ってしまう。

「……」

 気怠い身体を起こし、風呂に入る前の態勢に戻った。

 所詮こんなものは気の持ちようでしかない。自分で起き上がれないと思うならそのままだ。けれど、行動の前には必ず意思決定がある。意思決定が先なのだから、身体はその命令を聞くしかない。身体が覚える事もあるが、それは熟練者にしか出来ない。基本は頭が先で身体が後だ。


人を変えることはできないけれど、誰かの心に刺さるように、私はこれからも続けていきます。いつかこの道で前に進めるように。(_ _)