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日々、グロテスク。

夏が終わろうとしている。この夏は、なんだかいつよりも悩んでいる時間が多かった。この夏に頑張ったことといえば減酒だろうか。と言いながらこのnoteは缶チューハイを飲みながら書いている。缶のデザインにはすすきが揺れていて、酒のパッケージですらもう秋の気配らしい。鈴虫がうるさいと思っていたら、さらに隣の家からエレクトーンまで重なってきた。時刻は23時。迷惑だなと思っていたけど、悔しいことにやけに上手い。

わたしの生活は、なんてことない誰にでも当てはまる暮らし。それでも、多分みんながそうであるように、だいぶ幾重もの階層が重なって一つの生活と呼ばれる形になんとかまとまっている。会社での自分、複業での自分、友達の前での自分、1人の時の自分。それぞれの人格の違いに、ときどき驚いたりもする。

その中でもやっぱり特段自分が外面を向けてるなと(ライターのくせにいい表現が思い浮かばなかったのはご愛嬌)思うのは会社の時の自分。担当しているメディアのお色柄、スーツを着てバシッと決めたりする日もあるのだけど、意外となんとか様になってしまったりする。そんな日には、落とし忘れたラメ入りの青いネイルの先だけに、本当の自分が宿っているんだと思うことにしている。

こういう時に、自分って本当に普通だよなと実感して嫌になる。「一般社会に馴染めないほどのある種クリエイター気質な性格」だと自分を定義づけしたかったわけではないし、それが正義だとは思わないけど、そこそこに適応できてしまうくらいの、そこそこの凡人であることを思い知らされているような気がするのだ。

ラジオや現実世界でも時々見られる、「みんなが普通にできることができないのですがどうしたら良いでしょう」という相談が実はあまり好きではない。普通にみんなと同じことができない、ことは個人的に別に全然良いと思うし、それ自体に罪はない。でもそのセリフから「普通に生きていられる人は楽でいいよね」という皮肉めいたなにかを勝手に感じてしまう。多分普通に生きてる人もめちゃくちゃキッツイ中で普通のフリしてるだけ。だって人生そんなに甘くないし、と普通の会社員こと私は思ってるよ。笑

優しいようなふんわりした「自由」「多様性」の真綿のキラキラが実は1番グロいんじゃないの、ねぇ、って問いかけたい想いばかりが渦巻いていて、でもその矛先をどこに向けたらいいかはずっとわからない。

ときどき自分を因数分解しては、誰かに理解して欲しいなどという我儘を殺して、「理解をしてもらうだけの深さすらないのに傲慢な」ともう1人の自分が喝を入れて来る。最近たくさんのことに幻滅したけれど、そもそもの話、幻滅するほどの上から目線を持ち合わせて良い立場ではないことは覚えておきたい。

わかって欲しい、じゃなくて見せていかないとと思うのに感情の表現が下手くそすぎて24歳にしてすでに隠居生活のような日々を送っているが、それはそれで細々と楽しかったりもするのだ(基本的にフルリモートの仕事なので人に会わないのもある)。

いくらnoteとはいえ昔はもっと、明るくてあったかい話をもっと書けたはずなのに……とつくづく1人反省。とはいえ、これは自分が大人になった証なのかもしれない。明るくてあたたかな「見せていく」部分を、私が生きている、【今この現実】で消費をしているからこそ、文字は生の声に近くなっていく。多分裏を返せば、現実に余裕がないってことでもあるんだけど。痛みが心に食い込む一歩前の感触とか、言葉として生まれることのない言葉を残す、そういう時期なんだろうと思う。いるかな、いるよね。ずっとずっとまだ続くこの人生の中で、会えるといいな。大きな共感が欲しいわけでもない。何かを伝えたいわけでもない。自分のための、でもちょっと誰かに見てほしい、そんな私の今も脈打つ心臓を受け取ってくれる誰かに。




2022.09.02

すなくじら


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