人ごとだから、逃げろって言えるんでしょ。

今日は仕事に行けなかった。体は全然元気だったし、メンタルの調子も悪くなかった。ただ、電池が切れたように「あ、今日はこれはダメだな」って。n回目の社会人失格。会社は仮病を使って休んだ。去年もこんなことがあった。ただその時は違う仕事をしていて、わたしはその仕事のことがあまり好きではなかった。だからきっと「行けなくなる」のは好きな仕事ではないからだと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。わたしは今の仕事内容はまあ好きな方だし、人間関係も悪くない。でも行けなかった。フラフラと亡霊のように平日の夕方の街を彷徨いながら、思考は壊れたパソコンのようにグルグルと同じ場所に止まって一向に進まない。

夕方と夜の間が好きだ。まだほんのり紅に染まった空を背景に街の電灯がつき始める時間帯に、不思議と安心感を覚える。今日1日を無事に終えた安堵とこれから始まる夜の時間への期待が入り混じる時間。ディズニーランドに行って、アトラクションに乗っている間に陽が落ちて。外に出た時にはパーク全体に仄かな明かりが灯っていた時のあの感じ。心地良い風が頬を撫で、「まだ今日は終わっていないから大丈夫」だと告げてくれた。会社を休んでしまった罪悪感と明日の一連の仕事がすでに心重くのしかかっている。


「辛いことがあったら逃げていいよ」と大概の大人が口を揃えていう社会になった。いろんな枠での繊細さがある種の少しずつ社会で認められてきて、昭和の体育会系の根性論はもう古いとさえされている。一歩間違えればパワハラ・セクハラに今度は上司がびくついている社会にすら思える。

言われなくてもすぐわたしはすぐに逃げてしまうから、本当にどうしようもないやつだなとは思うけれど、そんなどうしようもないわたしが一つだけ確かに言えるのは「この世界で生きている限り、わたしたちが逃げているものから逃げ切る事はできないできない」ということだ。逃げるのは自由だけれど、そのあとは自分でどうにかしなければならない。


一時的な対処でその場の人間関係を離れてみたり、仕事から手を引いたとしてもそれは応急処置でしかなくて、いつか絶対に問題と向き合わざるを得ない状況はやってくる。うつ病患者の初めての会社復帰の日、自分探しの旅から戻ってきた後の転職活動、新しい恋人との生活、なんでもそうだ。大人になったわたしたちは、もう一度、いつか逃げたあの日の自分と対峙することになる。そしてその日があとに伸びれば伸びるほど、つきまとう恐怖は大きくなる。そういうものだ。明日も会社は無くならないし、生きるにはお金が必要。私は気軽な独身だけど、守るものがあれば尚更だ。

心の栄養が足りなくなると、わたしはてんで何もできなくなる。最近映画も本もnoteの更新もできていなかった。忙しかったのだ、とにかくいろんなことが。でもわたしの予定とは関係なしに、自分では認識することのできない小さなキラキラのすり減りが重なると、体は元気でも動けなくなるんだと思う。あとは人に会いすぎてもダメだ。ちゃんとチャージできるような時間がないと。


体の不調は、確かにしんどいけれど「喉が痛い」「鼻水が出る」みたいな明確なサインがあるから対処しやすい。ただ、キラキラの消耗を把握するのは正直難しい。砂時計の中の砂の流れのように、音もなく、あるときスッと足りなくなるものだから。充電があと何%なのか、自分ですら把握が難しい。


目の前のやるべきことにかまけているだけでは多分ゆっくりと自分が死んでいく。死なないようにうまくごまかせたつもりでも、体は絶対に耐えられなくなっていく。でもやることをやらねば生きてはいけない。なんて非情なシステム。人間という生き物はわたしが考えているよりも、きっとずっと脆い。他人とのコミュニケーションでかかる1mmの負荷の積み重ねに寝首をかかれる。悪い事ばかりじゃないって知っているけれど、あったかい場所に行きたい。今日はとにかくモヤのかかる頭で絞り出した必死の文字。綺麗な殴り書き。頑張るしかないのよね、わかる。わかる。




2021,05.31

すなくじら


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