書くことは「裸で吊り橋をわたる」ということ
タイピングをする指先が悴んで、うまくキーボードの上を滑ってくれない。流していた音楽を止めると、不意に訪れた静寂が心臓を蹴った。夕方の空はうすいもも色と水色が入り混じって、これから陽が登るのか、沈むのか、ときどきわからなくなる。換気のために開けた窓から、隣の家の甘ったるい煮物の匂いがほんのりと鼻腔をくすぐる。今は夕方だったな、とワンテンポ遅れて脳が理解した。
LINEの通知でスマホが鳴ること2回。相変わらずの機械アレルギー(と、わたしは勝手に呼んでいる)で、誤字と赤いびっくりマークがふんだんに使われたおじさん構文で送られてくる母からのメッセージだった。辿々しい文章はどことなくあたたかくて、時間をかけてメッセージを打ったのだとわかる。
母に人生で初めて、自分の書いた記事を送った。
とくに感想が欲しかったわけではなかった。以前母に自分の仕事を説明した時に「Webディレクター」「Webライター」という職業に母はいまいちピンときていない表情をした。「文章を書いたり編集したりするんだよ」と補足して、ようやく母の顔の筋肉が少し緩んだ。だから、ちょっと自分の活躍を見てほしい気持ちも半面にあって、最近反響が大きかった記事を送ってみた。
「この記事、結構たくさんの人が読んでくれたみたいで。よかったら暇な時に読んで」
わたしが送った記事はとある映画の俳優論で、今をときめくアイドルの俳優としての活動の側面を肯定的な視点で分析したものだった。
なんとはなしに、冬の冷気で気持ちひんやりとしたスマホをつかむ。
そして母からの返事に、わたしは思わず固まった。
純粋に母が自分の文章を褒めてくれたことは嬉しかった。ただ、同時に背中に冷たいものを当てられたかのようなヒヤリとした感覚が伝っていった。
ライターは、というか、ブログでもnoteでも、文章を書く人はすべて、何を書くかを選ぶことができる。選んだ答えに正解はなく、ふわりとした感触だけを手探りに各々のゴールを目指す。それはある人にとっては自分への戒めかもしれないし、またある人にとってはPV数かもしれない。しかし、それが不特定多数の目に触れる場合、世の中から受け入れられなかったときに、あるいは誰かを意図せず傷つけてしまったときに何かしらの「反応」が必ずある。だからこそ、当たり前のことではあるが言葉には責任が伴うわけであって、わたしたちは複雑に絡み合ったたくさんの人の想いの上を綱渡りしている。もちろん、共感を呼ぶ文章が必ずしも良い文章とは限らないのは承知の上だ。
自分が顔見えない誰かの心とつながることができるかもしれない手段が言葉であり、傷つけるかもしれないのもまた言葉なのである。そう考えると、言葉のナイフ、というワードは本当に的を射ている。誰かを傷つけることも守ることもできる、自分だけのナイフ。
文章を書くたびに。その文章が誰かの目に触れるたびに。吊り橋の向こうまでの距離が少しずつ縮まっていく。そのワクワクした気持ちは一生忘れたくないし、忘れるべきでもないけれど、橋の下では大きな濁流がごうごうと音を立てて流れていることを覚えておく必要があると思った。
ほんとうは、これは記事に限ったことではなくて、誰かにかける直接的な会話でも同じことが言えるのだろう。だからきっと、優しい人ほど言葉を選ぶ。箱の中から、あれでもない、これでもないとボールを探り、ようやく見つけたものをよく磨いてから相手に渡す。不恰好でもうまく意図が伝わらなくても、一生懸命に選んだことだけは、時間をかければきちんと伝わる。できることなら、誰かを悲しませるような呪いだけは自分の文章にかけたくない。朝露に濡れる蜘蛛の糸の如く繊細で、鉛のように重いそれを持て余しながら、橋の上から跳ねる飛沫の行方を、今はただ見つめるばかりだ。
2022.01.27
すなくじら
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