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一人ひとりが持っている「特性」を活かしていける社会へ(不登校からのキャリアデザイン パネルディカッション編④【最終回】)

※この記事は2019年8月18日に京都市で開催した、イベント「不登校からのキャリアデザイン〜「行かない」の先を、生きやすく。〜」における講演・パネルディスカッションの書き起こし原稿になります。登壇者・主催者のプロフィールはこちら


言いたいことを伝えていく能力。それを顔を合わせなくてもできる能力っていうのは、ものすごく重要

中:例えば、小中高でね、通常の学校で楽しく友達づきあいをしている子って先ほど曽和さんがおっしゃったような「書くことで意思表示をする」時間って少ないんです。教科の答案や課題作文を書く時間はあるけれど。作文に変わるようなものを書く時間って本当に少ないんです。

でも、企業でもし本当に先ほどおっしゃったようなリモートコミュニケーションのための書く力、文章によって人とコミュニケーションを円滑に進める能力が求められているならば、今学校に行っている子よりも行っていない子の方がそういった時間は確保できますね。

曽:そうですね。例えば営業会社のような口頭でコミュニケーションをとっていたところから、IT の会社とかに入ると最初に感じる壁がそれなんです。みんなシーンとしている中でチャットで全部やりとりしていて。

昔はそれが笑い話というか、ダメなことのように言われていました。なんで同じ空間にいるのに話さないんだよと。むしろ今はそう言っている人の方が「古いよね」となることもあります。

そう考えると実は働く環境における変化や、社会において必要なスキルも既にだいぶ変化が生じてきているんです。そのはずなのに、採用のあり方、教育のあり方と繋がっていない。社内ではそうなっているのに、採用方法は相変わらず面接だし、教育現場では旧態としたやり方が続いている。

でも最近は、リモート採用面接なんかも出てきました。そうやって、少しずつ変わってきていますね。今 AI やロボットが面接することもありますし。この流れはもう止まらないと思います。

中:今、色んな理由から学校に行けていない子が、自宅で将来に向けてのスキルを学ぶとすれば。チャットやメールでのコミュニケーション能力を伸ばしていくと、就職活動に直結できるかもしれない?

曽:そうなっていく可能性は十分にありますね。例えば採用活動でも、チャットで OB 訪問をするとか面接もそういう形になっていく可能性はあります。国語的、作文的な文章力とはまた違った、オンライン上のコミュニケーション力ですね。

なので文章だけではないかもしれない。写真を使ったりっていうのも含めて、言いたいことを伝えていく能力。それを顔を合わせなくてもできる能力っていうのは、ものすごく重要になってくると思います。

中:今、企業でネットリテラシー、いわゆるメールやブログ、インスタを使うことが企業の情報漏洩になることのリスクヘッジが盛んに言われていますが。学校現場は、ネットリテラシーがやはり相対的に低いんです。

だから、中学校や高校でも学校にはスマホを持ってくるなとか。 極端に言えばLINE使用禁止にしているようなところもあります。それは何かと言うと、学校側のリテラシーがなかったりするんですよね。 企業側が求める力量としては、メールやチャットを使った円滑なコミュニケーションのしかたと、ネットリテラシーも備えた若い子が増えてくるといのは望ましいことですよね。

曽:それは望ましいですね。さっき言ったように、現時点ではテキストだけかもしれないですが、もう少ししたら動画とかも含めて幅が増えてくるでしょうね。さっきあった、ネット遠足でのアバターをどう選ぶかもある種の表現力ですよね。


自分の好きな分野のことをわかってもらえると、子どもはうれしい。

中:西会津に国際芸術村っていうのがあるんです。小学校が廃校になって芸術村にしたんですね。教室を区切って工房にしているんです。アーティストがそこに来て絵を描いたり木工細工をしたりする工房なんです。

そこをクラスジャパンと西会津町を通じて、提携させても らったんです。その芸術村に、クラスジャパンに入会している不登校の子が行くんです。人と接するのは苦手だけど、絵や創作活動が好きな子という子がいるので。

ある子は、ある絵画のアーティストの部屋に一日中いて、ずっと絵を描いている。絵画のアーティストとは話をします。もう少しこうしたらいいとか。ずっと自分のやりたいことをやっているからご機嫌なんですね。これは、アーティスト側からの評価をしてもらえるから、子どもの満足度はとても高い。家庭とも違う、社会と繋がっている存在であるアーティストの側からの評価ですからね。

僕の好きな分野の絵のことをわかってくれる。親はわからないわけです。色使いがすごいねとか素晴らしいねって、お母さんは言わないし、仮に言ったところで子どもは「お母さん何もわかっていない」ってなります。

でも、専門家のアーティストが言ってくれたらそれは嬉しいわけです。自己肯定感高まりますね。そういった活動はもっと増やしていきたいなと思います。

一方で、そうやって学校外の場で自己肯定感・評価は得ていますが、学校での評価は得られていないわけです。僕はやっぱり、もう一つ、学校の評価は必要なのかなと思っています。通わなくても、 自宅で学んでいること、取り組んでいること。そのあり方を学校が評価するということが加わってほしい。アートという自分の世界の中の評価と。行く行かないは別として、自宅にいながら学校の中に存在している、認めてもらっているという 2 つの評価が必要なんじゃないかなと思います。

曽:内申って、最近より重視されるようになっていますよね。あれがより息苦しくさせている気がします。入試一発の方が楽だなって。最後スパートかければいいんじゃないかと。 日々のことも積み重ねていかないとダメっていうのは、本当は入試一発だとかわいそうだ からって言ってるんですけど、それが逆に牢獄というか、ずーっと見張られているみたいな 感じになっていて、もともとの導入経緯とは違うものになってしまっているんじゃないかと感じます。

門:高校進学にあたっての「内申」はどうしても最終的に序列づけて、査定をするような形の「評価」になっていってしまっていますね。一方で、中島さんがおっしゃっている形の「評価」は、その子らしさを認める。学校には居なくても、別の場所での頑張りを知り、わかってあげるという意味合いが強いと感じています。同じ「評価」でもニュアンスが全然違う。それこそ、前者は一つの物差しでの評価で、後者は多様な評価軸を教員自身が持つ、ということなんだと思います。

一人ひとりが持っている特徴・特性を活かしていこうという機運を作っていかなくてはい けない

門:中島さん、曽和さんありがとうございました。社会の動きとして、多様な人材を受け入れていく。そのほうが強い社会になるという機運のようなものがあることがよく分かってきました。

今回はネットスキルの話題が多かったですが、それに限らず、一人ひとりが持っている特徴・特性を活かしていこうという機運。 これはある意味で、「意識して作っていかないといけないもの」なのかなとも思います。

学校制度というものは、明治維新の際に国を強くするため、国家体制を維持するために作られた仕組みです。究極的には官僚になれるようなバランスのとれた人材を育成していこうという学校制度そのものに、明治維新から150年経って制度上の限界がきているのはあると思います。

とはいえ、そんな簡単に変わるものでもない。義務教育制度がダメなんだと言い続けても、目の前の不登校の子に対して何もしてあげられない。それではいけないということで、中島さんたちが立ち上がられているわけです。

中島さんが示されているのは色んな選択肢を子どもたちに提示し、子ども達と一緒に歩んでいこう。新しい社会を作っていこうという姿勢なのかなと思いました。

今日はたくさんの不登校のお子さんをお持ちの保護者の方に集まっていただいています。現実問題として、不登校の家庭がもつ「苦しさ」「生きにくさ」って、やはり物凄く重いものがあると思います。制度上変えていくということももちろんですが、そういう苦しい状況の時こそ、横のつながり、コミュニティに救われる部分というのも、たくさんあると思うんです。

親御さんはもちろん、子ども自身も、親ではない、斜めの関係の大人に評価されたり、経験させてもらえること、褒めてもらえることで救われることがあります。

今日、来ていただいている方の中には、不登校の当事者の方、当事者でありながら不登校支援の活動をされている方、継続的に不登校の子のための活動をされている方など、色んな方がいらっしゃいます。

ここからの時間は、そういった方々が交流し、横の繋がりを作っていく時間とできればと思っております。本日はお集まりいただき誠にありがとうございました。


【連載:不登校からのキャリアデザイン】

https://note.com/sunaba_corpo/m/m2f2850979f50

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