誰も結末を知らない怪談。今昔物語集より
何物とも見えず
ここに誰も結末を知らない物語がある。
ある人は自分の知るもっとも怖い話といった。
ある人は自分の知るもっともつまらない話といった。
それは、今は昔の物語である。
東国から京の都に上ってきた商人の一行があった。瀬田の唐橋を渡るところで、ちょうど日が暮れた。どこかに宿を借りられる家はないだろうか?
あたりを見回せばちょうど、大きな家がある。門も、塀も、壁も荒れている。誰も住んでいないことは 一目に知れた。そこにはかつて人が住んでいた気配さえなかった。何故、このように大きな屋敷に人が住もうとしないのか、訝しく思いながらも、一行は馬を降りてここに宿る事にした。
主人は少しはましな部屋に皮を敷き、ただ一人で寝ることとした。
夜も次第に更けわたる。まんじりともせず寝付けないでいた男の耳に、何か、ごぞ、と物音が聞こえた気がした。
ほのかに灯した火影にあたりを見回すと、部屋の隅に、大きな箱が、置かれている。
男は緊張し、しばし箱を食い入るように見つめた。しかし、もはやなんの音も聞こえない。
「さては空耳であったか」
あえて口に出したのは緊張を解こうとしてのことだった。そうは言ったものの、あの箱は、なんだ?
よく見れば、汚れてはいるものの、荒れた家に似つかわしくない、上等な紋様が描かれている。何故、こんなところに残されている。何故、野盗の類に盗まれずにいる。そして、何が、入っている?
吸い寄せられるかのように、箱に近づく。何が入っているのか、改めようと蓋に手をかけようとした瞬間。再び、ごぞ、と音が鳴った。間違いなく、箱の中から聞こえた。嫌な予感がした。
「もしやここは鬼の宿、知らずに踏み入ってしまったのでは……」
じわりと夜の闇が肌から染み込むように恐怖を感じ、逃げださねばと思った。だが、しかし、何故だ。男は箱から目を離すことができなかった。そうしていると、三度、ごぞ、と音がして、箱の蓋が、ゆっくりと開いていく。
今すぐ逃げ出すべきだ。いやしかし慌てて逃げれば箱から何かが飛び出し捕まえられるだろう。では、何気ないふりをして逃げようかと、「馬のことが気になる。見てこよう」と落ち着き装い口に出した。
男は何者をも刺激しないようそっと部屋を出て馬に鞍置き、這うようにしてまたがり、鞭を当てて逃げ出した。刹那、がさっとかの箱の蓋が開き、何かが飛び出した。その何かは恐ろしげなるうなり声を上げた。何事かを言っているようだが聞き取ることはできない。男は一心に馬に鞭を打つが、その何者かが猛然と追ってくる気配がする。唸り声と獣の如き息遣いが迫る。後ろを振り返り見るが、ぬばたまの如き夜の闇はべたりと視界を塗り潰し、その姿ははっきりとは見えない。ただ、とてつもなく大きく、恐ろしげなるものがそこにいる。自分を追ってくる。あれが、鬼か。
こうして逃げていくうちに、瀬田の橋にかかった。今のままではとてもではないが逃げられそうにない。男は馬から飛び降り、馬を囮として橋の下の柱の影に身を潜めた。夜の闇と、流れる気配だけする漆黒の川の境に立ち、自分までも闇に呑まれるかのようだ。ただ、川の臭いと水に濡れた足先の、刺すような冷たさが自分の命を感じさせた。「観音様観音様観音様観音様……」と念じることしかできなかった。
程なく、橋の上に鬼がたどり着いた気配がした。空気が張り詰めている。かの唸り声はやがて、人の声へと変わり、明らかに意味をもつ言葉と化していた。
「どこだ」
「どこにいる」
「どこだ」
と呼ばう声がする。恐ろしく感じながらも、うまく隠れ多せたと、男が思ったその時である。
「ここに」
と、何かが声を上げた。男の足元から、足の浸かる漆黒の川から、何かがぬるり、と上がってきた。それも暗ければ何者とも見えず───
ここで話は終わっている。今昔物語集はここから先が欠落している。
この物語の結末は誰も知らない。
(今昔物語集 巻二七 従東国上人値鬼語 第十四より)
解説
何者かが水から上がってくる所で今昔物語集が欠落し、誰も結末がわからなくなっています。しかし、結果的に現代怪談になれた我々でも不気味さを感じ得る、偶然が作り出した奇跡の逸品と化してしまいました。さながら窯の中で偶然の灰や熱による歪みで焼き物の傑作が生まれるかのようです。
さて、この欠落部については多くの議論があり、江戸時代に出された『校訂今昔物語』の中では橋の下に鬼の手下が潜んでいて見事やられちゃいましたと付け足しをしています。
また、近代では今昔物語集全体に念彼観音力を説く傾向が強いことから、水から出てきたのは観世音菩薩で、身代わりになってくれたか、鬼を撃退してくれたという結末推理があり、まあ説得力を感じます。
しかしながら、どちらにせよ結末を明らかにせず、我々読者にぶん投げられる方がより攻撃的でおもしろいのですよね。
似たようなものにラフカディオ・ハーンの「茶碗のなか」があります。これは『古今著聞集』から引いた話だった気がします。
☆最後の一文字だけお賽銭でございます。いただきましたお賽銭は次なるフィールドワークのために使わせていただきます。
ここから先は
¥ 100
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?