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否定しないの後ろに隠れる


基本的に「否定」することはない。どんな意見も、嗜好も、結構本気で肯定できる。許容値は広いが、優しいとはまったく違うことを自認している。肯定しようとか、肯定できるとか意識的に思っている訳でもない。むしろしようと思ってする「肯定」は噓くさいし、難しい。

”その人が、その人であることを、そのまま受け入れる”ということにすごく意味があると思う。(誤解と語弊を含んでいることは承知。)
そこは平地で、求めるものがない。相手を変えなくて良い。相手を受け入れるかどうか、自分の問題だけで済む。

中学で陸上部、高校では水泳部(途中でやめたけど)だった。誰もが分かるように個人競技である。厳密にはリレー種目もあれば練習なども仲間と行うのだが基本的にひとり。向き合うのは「時間と自分」戦う相手が「時間」であるということが、とても明確で心地よかった。誰かがミスをしたから負けたのだ、と思いたくないのに思ってしまう自分と出会う必要もなければ、逆も然り思われることもないので、いたたまれない自分と見つめ合うこともなくて済む。

”ひとり”ということは”負けるのはいつも自分”ということである。

時間に感情はなく、淡々と正確に刻んでいる。そこに意味を持たせ一喜一憂するのは自分。いつも負けの原因は自分にある。わかりやすくて静かな世界である。

”その人が、その人であることを、そのまま受け入れる" その人がなんにも思わず自分の思考を話せて、きっと意見されたり否定されたりしないだろうなと感じる相手であるためには、自分の意見があるかどうかはほとんど意味を持たない。相手に求めず受け取れるかどうかにあると思う。だからと言って、上手に慰めたり、ましてや的確なアドバイスを助言するなどは全く出来ないので相手からしてみればただ話しがいが無い相手だと思う。聞き上手というわけでもない。

それもこれも全部優しさではない。ただただ誰かを否定した瞬間にどこかで自分が否定される声が聞こえる気がしてならないだけで、結局のところ我が身可愛さからうまれたどうしようもない答えである。


「そうだね」と
言えた回数
数えない
ここはそういう場所だと
聞いています

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