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『刺激的な』言葉は、『麻薬な』言葉。ーー人を惹きつけるコトバの「危険性」ーー

常日頃、本とか、SNSとか動画サイト、tvなんかを見ていると「言葉」って麻薬だなぁと思うことがある。
みんなを惹きつけるための「惹きつける言葉」を使ってるなと。
人を惹きつける言葉を巧妙に使ったモノは軒並み反響がいい。楽しく面白い一瞬を提供してくれる。

しかし、その言葉に日々惹きつけられる私に、擦り切れた理性が電池切れの目覚まし時計よろしく弱々しい警鐘を鳴らす。

「私自身を搾取されているよ」と。

私は「人を強く『惹きつける』言葉」を勝手に「麻薬コトバ」と呼んでいる。
「麻薬コトバ」は枚挙にいとまがないぐらいあげることは可能だ。むしろ入らない言葉の方が少ないかもしれない。
例えば、「衝撃」とか「号泣」とか。
「衝撃」の事実とか、大物女優〇〇が「号泣」とかキャッチフレーズ見せられると惹きつけられるでしょ?
題名に使った「危険性」だってそうだ。これはわざと使った。「危険性」という言葉でこの記事に来た人は、申し訳ないけど私の仕掛けた罠ひっかかってしまっているよ。気をつけて。

あと、別に「麻薬コトバ」は熟語に限らない。
「たった〇〇だけで」とか「〇〇時間以内に」とかよくありがちな宣伝文句も入るし、
組み合わせ次第で「わかる」とか「学べる」とかも入る。
例えば、「誰でも『わかる』」みたいなことだ。

「麻薬コトバ」は「麻薬」という言葉のイメージ通り良いものとは言えないし、また、その言葉通りの現状や感動をくれるとは限らない。
「衝撃の新事実」って言われて本当にそうだったことは何回あった?
「ほとんどの人が〇〇」と言われて、〇〇であった人は周りに何人いた?


そして厄介なことには、「麻薬コトバ」は「麻薬」であるから目にすれば目にするほど耐性がつく
「麻薬コトバ」から「コトバ」の刺激が得づらくなっていく。
そうなると人はそのコトバから得られる刺激を求めようと漁り始める。似たような知識を得るために、まとめ記事を見続けたり、youtube見続けたりする。明確に調べたいこともないのに、惰性だとわかってるのに、どんどん面白みが薄くなっているのに、見続ける。
「『衝撃』の新事実が判明!っていったってどうせ大したことじゃないだろ?」と言いつつ再生ボタンを押すのだ。検索をかけるのだ。大した情報は得られないとわかってるのに。


私は毎日、それをしてしまう。
まるでパブロフの犬。
いや、ただの情報の奴隷かな?

「麻薬コトバ」で搾取されているのは時間じゃない。その人自身だ。
「麻薬コトバ」で身がボロボロになり始めている。


この「麻薬コトバ」に隷属する習慣を止めるには、自分の心を動かすトリガーが必要だ。
私はちゃんとそれに気づいてる。
大きく2つあるんじゃないかと考える程度には。

1つは、
自分が情報によって「選択させられている」ことに気がつく。

もう1つが、
「時間を忘れるほど夢中になれることを見つける」だ。


私は、1つ目に関しては既に持ち得ている。
でも2つ目は現在、持ち得ていない。
(その理由としては、夢中なものを見つけるって死ぬほど難しいから、だ。今そういったものがある方はそれを大切にした方がいい。大切にしないと消えて無くなる。私は無くなったw)

それでも私は、私に言わなきゃいけない。
振り返ってみろ。
「衝撃的なラスト」と言われてみたTVより、友達とやったトランプの方が余程楽しかったろう?
「大ヒット」と銘打たれた小説より、多くの人が知らない小説で甚く感動したのを忘れてないよな?
「たった〇〇だけで」って〇〇だけで済んだこと一回でもあったか?
「〇〇を続けてみて」って記事読んだって、てめえが続くかは別問題だ。

宣伝と自分を区別しろ。
他人と自分も別物だ。
一般は作られたものだと認識しろ。
「コトバ」に踊らされるな。
「コトバ」ではなく「言葉」を使う者であれ。

他人の感想は自分の感想ではない。
他人の感想で自分が何を得たか/得られるか思考しろ。
何も得ない/得なかったのなら、それは自分にとって要らないものだ。


大事なのは自分が何をした事でどう思うかだ。

受動的になるな。
自分の身をこれ以上削るな。


「言葉」を使って自分の世界を創造しろ。

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