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ノンフィクション: [邂逅 ~1980~] ②自立

2. 夏~秋:  1986年後半~1989年

       あれは、忘れもしない、1989年8月半ば。
        アメリカの地に降り立った際に、映画で見たみたいに、地面にキスしたかった。

       私が大学への一人旅だったのを知っていた金髪のアメリカンフライトアテンダントが、私にウィンクしてGood Luck、と言って、笑いながら敬礼してバイバイ、と手を振って送り出してくれた。

        独りぼっちで着ちゃった。自分だけで、自分で夢をモノにしたんだ。 とうとう、着ちゃった!
       
         恐怖感は全くなかった。今でいう、怖いもの知らずの阿呆である。

        だだっ広い、埃っぽい飛行場から、歩いて空港に入った。
         無駄に広くて、誰もいない感じだったが、アメリカってこんなもんか、と思った。段々人が増えて来た。飛行機を出て、直ぐ匂ったのは、食用油。チキンフライとかステーキの、脂肉の焼ける匂いだった。
       
         一緒に働いていた、I〇M本社のアメリカ人上司等から、日本で飛行機から下りると、魚のにおいがすると言われていたので、まぁ妥当か、と感じた。

       当時のアメリカン航空の飛行機は、事故が多く、ジェット機が外国飛行専門で、州を超える国内航空は全て、プロペラが二つ着いた、ボロッとした飛行機だった。空圧一つで大空を上下感激しく上がったり下がったりした。
       途中で落ちたらどうしよう、と怖くなり、以降、飛行機に乗る時はアメリカンでなく、ユナイテッド専門でオーダーした。

       ゲートに向かって歩き始めると、約束していた時間よりずっと早く到着していた。見廻しても誰も知り合いなど居る訳はない。公衆電話があったので、電話しようにも方法が分からなかった。
「私、来る事に一生懸命で、着た後の事を考えるの、忘れてたな」
冷や汗が出てきた。


     両親に渡米したい旨、話をしたら、大反対された。最初は、口をきいてくれなかった。

      当時、有名企業の外資、I〇M 日本本社から派遣されて、アメリカ本社が直接経営していた、K谷町のワールド本社に通勤していた私は、20歳にして、ほぼ日本企業の平均給与の3倍の高給を貰っていたからだ。

       残業が人並み以上の国際広告業種の一番最初の就職先は、父には娘にとってそぐわないと思ったものだった。月に一度、明け方の3時まで計画残業をし、その後、国際広告本部が部署を挙げて大騒ぎの呑み会をしているのを、会社は黙認していたが、まだ19歳から二十歳になったばかりの私を、父はもっとしっかりした会社にやりたい、と苛立っていた。本部長は、部署の深夜の月一のパーティは認めて出費していたが、〇〇ちゃんを早くウチへ返せ、と、タクシー券を私に率先してくださっていたが、父には、それは足りなかった。

        或る日、残業続きで倒れた私の姿を見て、会社にモノ申す、という形で、家族に黙ってこの会社の人事担当者の常務を勝手に訪ねて行き、常務を脅かすかのような態度で「娘は辞めさせる」から、と私を会社から辞めさせた。

        父は私の就職する会社の質を矢鱈と調べ上げ、私は反抗した。貿易会社で数か月アルバイト後、I〇Mの求人を私が見つけて、契約職で入社した。あまり落ち着かない私の就労が、この大企業に入った事で落ち着いた。父としては、アメリカの大学なんぞで変な影響を受けるよりも、大企業で落ち着いてしばらくしたら嫁に行かせるつもりでいたらしい。悪いが私は父の言う事に端から反対の事を唱え、喧嘩ばかりが続いた。

       当時の社内は、本当にアメリカの会社と同じで、日本語など勉強せず、アメリカ文化を当たり前に日本人の就労者に押し付けた。英語で経営され、事業は英語だった。日本人のアシスタントは日本語でやり取りしたが、とにかく鼻高々の女ばかりで、気分が悪くなるほどだったので、初めから気が合わなかった。

       ワールド本社が日本本社の専務取締役のカナダ人に、秘書として帯同するように指示があり、取締役補佐二人日本人と一緒に、専務とほぼ毎日、彼の妻まで巻き込んで、彼の家族のような生活を2年間した。

       専務補佐二人とは初めから気が合い、とにかく毎日を共にし、スケジュールと発言内容、記者会見から会議まで、一緒にくっついて歩いた。

        この専務は、葉巻を吸う人で、喘息の私は咳き込まないように苦労したが、喘鳴が多くて苦労していたら、彼の妻が気づいて、のちに旦那さんの専務さんの禁煙に繋げてくれた。

        当時、〇井や新宿のセ〇タービル周辺に並んでいた一流ブティックへ母を連れては訪ね、専務の妻は、私に何をオフィス出来るべきか、レクチャーし、母にはバッグをプレゼントした。パーティの案内状の書き方、ワインの選び方、垢抜けていない私を教育してくれた。

        私はと言えば、フォーマルウェアを着て、結構よそ行きの格好を毎日していた感じだった。今の方が、どちらかと言うと、学生時代のファッションに近いくらいだが、当時はオシャレな服を着せられた。当時の私は役員秘書として会社から、給与のほかに役員室から服務代なるお金が出て、専務秘書に相当する服を着せられた。

         母はとても嬉しそうだったが、彼女には分からない部分で通勤時間往復4時間を、9センチのヒールで歩き廻って、今の外反母趾が酷いのは、この当時の無理が祟るもの、と考えている。

         脚はみるみる腫れ上がり、毎日、浮腫んだ。それでも、まだ20代前半の私は、週末に休めば、問題なかった。

       この80年代後半、バブル時代が始まる。当時、六本木の本社から、六本木の坂を下って、WAVE というレコード販売店の大きなビルや、ディスコティークや、常識を超えるような高額のフランス料理屋さんを通り過ぎていた。余るようなお金を銀行において、服とアメリカの大学を受験するための方法を探った。

       当時、セクハラなどは日本の辞書にはなかった。誰も気にしないし、女がソレで泣けば、あいつは阿呆だ、と罵られた。社内恋愛は、社会の階段を上りたい有能な男女が平気でやっていた事だった。

       専務は、私を「マリリン」と呼んだ。彼は私がセクシーだ、と言っていた。ハッキリ言って二十歳前の私には、分からなかった。

      彼の妻は、カナダの上流家庭のお嬢様だった。私のあこがれの美人だったから、私には自分がセクシーだ、などとは夢にも思わなかった。彼女も私をマリリンと呼んだ。

       私の本名は、アメリカ人やカナダ人、欧州の外国人には発音しづらい名前だった。当時、流行っていた、スリット入りのタイトスカートが似合う、とボスは言い、私に髪を切らせてスリット入りのタイトをずっと身に着けるように指示した。

        今考えると顔から火が出るが、彼は私を愛人などにはしなかった。荒っぽくて乱暴な父の話をしてあったので、殺されたくなかったから手を出さなかったのか、分からない。彼らは私にアメリカ社会の事前研修をしてくれた。

       彼の専務補佐二人の内の一人は、私と呑み仲間になり、凄く親しくなった。彼の不満や悔しい思いを、私はよく聴いてやったし、鼻高々で私の素人的な態度をバカにする秘書連の中で虐められた私をよく六本木で憂さ晴らしする手伝いをしてくれた。

         彼は私の事が大好きで、良く彼のオフィスに行き来する私に、
「付き合いたい」
と言ったりした。今ならそんな人の話に、身体ごと飛びつく私だけれど、当時の私は、もっとしっかりしていて、アメリカの大型マラノワ犬並みにエネルギーが有り余っていたので、アメリカについて学び、米大で学ぶのが目標だったので、男に興味はなかった。結婚もしたくなかった。両親を見て育ったので、結婚は、母に見合いを勧められても、絶対にしたくなかった。

       翻訳のバイトを請け負ったり、マーケティング会社で記事収集を請け負いながら副業でためたお金で学費を貯めようと頑張った。両親の知らない銀行に盗まれないように口座を作ってお金を貯めた。

      アメリカの大学で勉強したかったので、死に物狂いだった。当時、私に恋する一流会社員の役員補佐の彼のプロポーズを断り、一生懸命、同通・和英翻を専門的に教育する学校の夜学に通い、学校の支援で国際会議のラウンジの学生通訳としてバイトしたりさせて貰った。

       学校長は国際会議の同通の第一人者で、パーティで私に、アメリカに行け、とアドバイスした。
「アメリカの大学に行きたいけど、金がない? 何、謂ってんだい。スポンサーを探しなさい。I〇Mなら、沢山金持ちの外人がいるだろう」
と宣った。

        当時の日本は、セックスとビジネスが合流した社会だった。補佐の一人と恋仲になった私の事を、すでに知っていたかのように、カナダ人の上司は彼を本社の営業部長職にトバした。翌日示し合わせたように着任した後任者は、ボストンから帰国したばかりのジェントルマンだった。彼はオールジャパンの前の彼に比べて、アメリカのコーヒーの薫りがした。

         ボストンから着任した補佐は結婚していて、ボスから事前に話を聴いており、留学希望の私を旨く扱い、通翻をさせ、煽てては優しくパーティやソーシャルに同行し、所謂アメリカ生活の用意を教育してくれた。

        TOEFL(外国語としての英語)の試験では、勉強を自分でしていたが、予備校に通って勉強すると大学院レベルの点数が貰える、とボストンから来た補佐にアドバイスされて、半年間、努力して通翻学校の夜学の隙間に通い、土日クラスを経て、1988年11月の末に、大学院レベルの点数が貰えた。

       今、考えてもタフだった。 この約二年の間、フルタイムの仕事の他に二つの隙間通学をし、貰った給料を学費に使って、暇があれば、アメリカ生活に心を馳せた。

       父は母を通じてこの様な多忙な私の生活を聴いていて、最終的にアメリカ留学を許してくれた。自分の今までの仕打ちを謝り、会社を作って仕事に励み、私の学費捻出に協力してくれた。

       当時の外資銀行のシ〇ィバ〇クから奨学金を得て、1989年夏にアメリカへ渡る事が決定した。

       私の人生に於いて、結婚や出産の夢などは無くなった。誰にどう結婚を勧められようが、「絶対しません」と一言で一蹴した。

        物心ついた頃から、母が父に虐められたり、蹴られたり、引っぱたかれたり、怒鳴られて蔭で私を抱きしめて啜り泣きしたりするのを見てきた。心底、父を呪ったものだ。「祖父の血の影響は孫に大きくなる」、という血縁関係の内容の本を読み、結婚はおろか、子供を持つのも止める事にした。

        私は成田で一人で出国するつもりだったが、涙もろい母がついて来て、見送りカウンターですすり泣きしていた。グランドホステスに母の世話を頼み、さっさと飛行機に乗り込んだ。

         大学の寮で、牛の様な黒人のバスケ選手から虐められたり、背の高い阿呆のような男から追っかけられたり、人種差別主義者たちに虐められたりしながら、自分なりの友人や人の輪を作り、その中で恋もしたが、いつも自分の道は、「結婚」しないし、「出産も出来ない」、と言う事で終結した。

         12年の長きに於いてアメリカ生活が開始したのだ。独りぼっちの第一歩だった。


コレはアメリカにわたる前後の、私から見た事実の話だ。過去の夢、キャリアや大切な人生の欠片。

独り立ちした時、本当に自分一人だった。その時に自分で選んだ道は、自分なりに今考えて、後悔していない道だった。だからタイトルは過去との「邂逅」だ。

夜は寝苦しいし、昼間も暑くて、ホントの真夏だ。あ~暑い。
次は第3項。

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