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大学受験に失敗して浪人が決まった昭和55年(1980年)の春、フジテレビで放送された『用心棒』と『椿三十郎』を観て黒澤明監督に魅了された。

 黒澤監督の偉大さは中学生の頃から知っていた。『七人の侍』もテレビ放送と名画座で観ていた。ただ私が黒澤監督に抱いていた印象は、大作しか撮らない巨匠でとんでもなく遠い存在というものだった。それが『椿三十郎』は小品なのに大傑作、という点で違っていた。
 私は「どうやって黒澤監督は映画監督になったんだ?どうして他の邦画とこんなに違う映画が作れるんだ」と思い始めて、黒澤監督に関する本を探し始めた。当時はまだ『影武者』が完成する前だったので、佐藤忠雄著『黒澤明の世界』と都築政昭著『黒澤明』上・下巻、植草圭之助『けれど夜明けに』くらいしか出版されていなかった。その4冊を貪るように読んだ時、「映画学校に行っても映画は学ばべない。映画監督に必要なのは、人間を研究することだ」という言葉を見つけて、大学に進学して法学部で人間の犯罪心理を学んで、8mm映画を作って賞を取る事が黒澤映画への近道だ、と考えるようになった。
 翌春第1志望の関西学院大学に合格したら、直ぐに文化総部映画研究部に入部した。そこは映画を研究するところで作る倶楽部ではない、と言われて半年で辞めてしまったが、2年生になって世代が変わると8mm映画を作りたいという3年生の先輩が声をかけてくれて『きつねがはら』(由谷健一監督)という映画の主役に抜擢された。90分の大作で、半年かかって撮影した時に、映画がワンカットずつ撮影するものと知ったり、繰り返し編集してサイレントで完成し、アフレコする工程を学び、それが如何に楽しいかと実感した。    
 その映画を見た映研OBの森正樹さんが、次回作の主演にと声を掛けてくれた。森さんは関学卒業後、大阪と神戸で8mm映画の上映会を広く催す『二十世紀シネマ再開発』を立ち上げていた方だ。映研を辞めて体育会系のボウリング部に所属していた私に当てた『レーンでキッス!』という脚本まで書いて下さった。3年生の時にクランクした私の初監督作品『これでもまだ君は彼女が好きか?』(以下『これ君』)を高く評価してくれたのも森さんだった。
 『これ君』が完成したのは昭和59(1984) 年の2月だった。ぴあフィルムフェスティバルに応募したものの、程なく落選し、「映画の道はあきらめて就活でもするかな」と思い始めたが『これ君』を直してCINEC関西の上映会に出した時には5月になっていた。『これ君』の脚本で応募した『乱』研究生募集も落選の通知が来て、黒澤監督に会う絶好のチャンスも逃していた。
 すっかり落胆していたそんな6月1日、1本の電話が掛かって来た。「森正樹さんの紹介で電話してます。中山伊知郎と言います。ヘラルドに『乱』のメイキングビデオの企画が通ったので、スタッフを探しています。やりませんか?」「えー!やりますやります!」この日、私の人生が変わった。大学の単位はほとんど取れていたので、就活の一環だという事でゼミの先生には休学届を出す必要はないと背中を押された。
 そして、1か月後の6月31日の夜には、姫路城近くの大きなホテルのロビーで黒澤監督に握手で迎えられ、黒澤組の晩餐会でメインスタッフ全員に紹介されるところとなった。その夜から、翌昭和60年(1985年)6月1日『乱』公開日まで、夢のようなが日々が始まった。

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