「火垂るの墓」が凄すぎたので語り、作品の考察をする。
ねじ伏せるような圧倒感
いやーーーーーーーーー!久々に観ましたが、この作品は最高ですね。僕は全映画の中で「もののけ姫」が一番好きなのですが、正直匹敵するくらいの衝撃度でした。僕幼稚園生の時にVHSでたくさん観ていたのですが、それ以来の鑑賞だったんですよね。もはや泣けなかったですね。凄すぎて。
同じように戦争期の一般市民を描いた映画として、「この世界の片隅に」がありますよね。あれもこの前観てめちゃくちゃ良くて泣いてしまったんですけど、なんていうか「火垂るの墓」は人間の本能による行動と、心から生まれる言葉という建前の対比を鮮明に、そして残酷に描きすぎていて圧倒されてしまったという感覚でした。
「こいのぼり」を登場させた意味
作品の中盤、西宮のおばさんの家にいる時に清太がオルガンを弾いているシーンがありますよね。そのあとおばさんに怒られちゃうんですけどね。笑
ここで一歩立ち止まってみると、なぜ清太は「こいのぼり」を歌っていたんでしょうか。これは歌詞を見てみると見えてきます。
「屋根より高いこいのぼり 大きな真鯉はお父さん 小さい緋鯉は子供たち 面白そうに泳いでる」
この鯉のぼりの歌、お母さんが登場しないんです。これは鯉のぼりを揚げる端午の節句を知る事で考察が深まるかもしれません。端午の節句はもともと中国の英雄が川に落ちて亡くなったのを弔うことが発祥のようで、日本では昔から女性が夫や子から離れ、神様のもとで豊作の祈りを捧げるという風習があったそうです。そして江戸時代から鯉のぼりを揚げる文化が始まり、当時は歌に登場する「大きな真鯉」つまり黒の鯉だけが揚げられていました。それは当時の武家の後継ぎである嫡男の成長を願うという想いが、立派な鯉のみを揚げるという風習につながったようです。
さて作品に当てはめると、まずすでに亡くなっていた父親の後継ぎである嫡男は清太です。そして鯉のぼり自体の起源から考えれば鯉のぼりに上がるのは嫡男、清太であり、節子は対象ではありません。そして歌詞にも出てこないように、母親は爆撃によって亡くなり不在です。そのため鯉のぼりとして揚がるのは清太だけとも言えます。そこまで深い意味があるかは定かではありませんが、この鯉のぼりの歌は、清太一人だけが生き残るという事を暗にすでに示していたのかもしれません。
未熟な清太
この作品をまとめると、妹想いであるという一面を見せながらも、言葉で語らない所で実は清太は自分の欲に忠実だったために、死んだ後も節子の死に対して悔いて成仏できない。といった印象を受けました。
社会における清太と節子の立場と扱い、そして清太と節子の関係における節子の立場と扱い。これが一致している様に見えました。
そもそも社会は、戦時中だったために「他人に構っていられる余裕」なんてものはなかった。厳しく描かれていたおばさんも、自分らの家を守ることで精一杯。『あのお米うちらのやのに…』清太の母親の着物で得たお米を分け合うのも、一見理不尽な様だけど、ご飯を作ってくれて、お風呂も入れてもらえて、部屋を貸してくれて…っていうギブアンドテイクの関係を考えれば、当然のことであり、それを言葉でも行動でも伝えてくれたおばさんはこれから社会に出る清太に対しての愛のムチだったとも捉えられる。
そう、このお話は清太も未成年なんです。だからこそ未熟な面がたくさんある。「周りに生かされていること」に気付けていない。だから戦時中というシビアな状況で、他人のおばさんの家で「おかわり」が出来るのです。その皺寄せでおばさんはシンクでお鍋の底に付いたおこげを食べていたんです。それを見て「うまそうやなぁ」と清太は言いましたが、なぜおばさんが残り物を食べているかという、その真理に気づけていなかったんですよね。
清太の本能と節子への建前
そして、言葉で語られることはありませんでしたが、おそらく清太と節子は2人で暮らし始めてから「パワーバランス」が発生してしまったんだと思います。そもそも考えてみてください。14歳の清太ではなく、なぜ4歳の女の子の節子だけが栄養失調で病気に罹ったのか。基礎代謝も違うでしょう、清太は沢山外を回ってひたすら2人が生きる道を探していました。でも、節子はただ家でで待っていましたよね。絶対清太の方が栄養を消費するはずなんです。清太は盗みを働いたけれども、結果的には節子のもとに1人の力でご飯を届けている。このパワーバランスの崩壊。清太が圧倒的な生産者になってしまったことに加え、節子は何も生み出せない。だからこそ現実はシビアで、清太がご飯を沢山食べるのは仕方のないことだと言える。節子のために買ってきたスイカも卵粥も、しれっと食べた状態の描写を挟んでいましたよね。節子が目を覚まさなかったのにそうなっているということは…。だからきっとそれまでも本当はもっと節子に分け与えられたはずなんです。でも清太は本能的に「自分が明日生きていられるか」の方が大事なんですよね。節子の死をただ切ないと思いたいけど、それを許してくれないくらい残酷でサディスティックな映画ですね。最後節子を火葬する時に、清太は何でドロップス缶を節子から取り上げたんでしょうか…。
清太は未熟です。「節子のため」より「自分のため」を優先してしまう子なんです。本当なら、節子の大好きだったドロップス缶を一緒に入れてあげるべきだった。節子のためを思えば、ドロップス缶を握りしめて成仏させるべきだった。でも生き残った清太が節子の形見が欲しいから、寂しいから、だからドロップス缶を取り上げ、自分の手元に形見の様に大切に持っていたんだと思うんですよね。ラストシーンで2人の幽霊が節子の墓の近くでベンチに腰掛けるシーンでは、節子が寝る時にドロップス缶を清太が渡してあげていましたよね。きっとあの火葬の時に節子にドロップス缶を持たせてあげなかったことも、後悔していたんだと思います。自分も亡くなって、やっと節子に渡せたのはすごくロマンチックでしたね。
自分の感想まとめ
人間って本当に複雑に出来ていて、物語においてはハッピーエンドなんていくらでも存在しますが、やっぱり「自分」が大切で、死にたくなくて健康で居たくて、それは家族という関係においても究極的な所では「他人」であって、最後は自分のためにという欲望を我慢できない。それがリアルなんですよね。特にこのお話は戦争が描かれているから、より緊迫感があり、社会が冷たく描かれる。ハッと気がついた時に「なんでもう少し優しくしてあげなかったんだろう」「なんで気にかけなかったんだろう」と、後悔するのも人間の心だけれど、一緒にいる時に気にかけ、優しくすることが出来ないのも人間の本能と言えるのでしょう。この8月15日という大切な日にこの傑作を観ることが出来て、本当に幸せです。
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