20230120-0124

20230120
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行く。家族で遊ぶので、俺が一度観てみたいユニバーサル・モンスターのショーなどは観られない。4歳と1歳が歌うフランケンシュタインを見たらどうなるのだろう。ユニバーサルがあのユニバーサルだと改めて認識できる良いショーだとは思うのだが。去年からゴシックに興味があるため、フランケンシュタインだけでなく狼男やドラキュラが出てくるのならばと楽しみでしかないのだった。それを通り過ぎゆく日々。期待は募るばかり。それはSINGのショーが面白かったからで、このクオリティならばこちらも面白いはず。躍り狂うフランケンシュタインを見たときに俺はどうなるか。『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ)の子どものような顔をするのだろうか。

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『ヘルドッグス』に『金枝篇』(『地獄の黙示録』のカーツ大佐の愛読書!このマーロン・ブランド大好き。)を暗唱するシーンがあって、真似したいとは思わないが読みたくはなった。とりあえず金枝篇bot @JamesFrazerBotを眺めたり、松岡正剛が書いたものを読んだりしている。

中央公論2022年10月号の高山宏と松岡正剛の対談(構成後藤護)読む。カンバセーションはアートであるということをポエトリー・リーディングやポッドキャストで実践したいと思ったりした。自分の知をどう聞き手や受け手と呼応させるか。方向を意識させて巻き込んで「向きがお互いに共通になる」ためには詩の朗読を書き言葉から離れさせたい。詩をただ読むだけではいけない。音読することによってテキストを変容させる。詩集を読んだ時と詩を聴いた時では詩のイメージが変わらないといけない。著者が自分の詩の解釈を提示するのではなくて解釈をさらに与えること。それが会話になる。

という感じで松岡正剛に近づいている。あまり近づかないでおこうと思っていたが。笑 理由は特にないのだが、追い始めると読まなければならないものが大量に増えるから困るかもしれない。

『詩と、人間の同意』(稲川方人)を読んだ。図書館で借りたのでコピーして線を引いたり書き込んだりしていて気づいたのだけれど、図書館の本なら安心してマルジナリアができるということ。逆に、みたいになるが。笑 買った本もコピーすれば良いのか。ただそれだと痕跡が辿りづらい。詩集にも書き込みたくなるのだが、それをしてしまうとせっかくの詩集の美しさが損なわれてしまう。そうなると結局は図書館で借りたどうせ手放す本をコピーしまくり、ガシガシ書き込みを入れる楽しさ、これに尽きると思ったりした。現に現代詩手帖を印刷したものに書き込みまくるのは爽快だった。図書館で借りた詩集も印刷して書き込もうと思う。すでにマルジナリアめいている小笠原鳥類の詩集に書き込むのは楽しいはずだ。

そしてマルジナリア繋がりで、澁澤龍彦の『マルジナリア』をどの装丁で買うか迷っている。良い状態のがあれば文庫が良いが、箱付きも捨てがたく、小学館から復刊されたものは新品で手に入るがダサすぎて困る。あれを部屋に置いておくということを考えるだけで投げ捨てたくなるが、それこそマルジナリアに励むべく買えば良いのかもしれない。『マルジナリア』にマルジナリア。

さらにマルジナリア繋がりで書けば『マルジナリアでつかまえて』(山本貴光)とその続刊を手に入れたい。図書館にあった。マルジナリアにマルジナリアだ。

『詩と、人間の同意』に戻ると、松本圭二を論じている何箇所かあり、俺の中では岡田隆彦-稲川方人-松本圭二のトライアングル(線というよりかは)があるのだが、綺麗にそれを感じられたのが良かった。他にも自分で論考をまとめている最中の「推敲」についても彼の考えが書かれていて、これは…と思いコピーしてマルジナリア。この「コピーしてマルジナリア」の流れが楽しくて仕方がなく、一日中していた。

追記。というか疑問が出てきた。
印刷したものに書き込む行為をマルジナリアと呼べるのだろうか。俺はマルジナリアではないことをしているのかもしれない、と不安になったが(だとしたらあまりにもギルティーで…笑)、楽しんでいる時に突如よぎる、すべてに水を差すような思案であるはずだと思うことにした。確認してしまうと楽しくなるので、しない。


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