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林美脉子『黄泉幻記』より『凍沱の河口』レビュー

 人間が一つの生命である実感、またその生命の力強さは死の直前に現れる。冷たくなった亡者の手を握った時に、自分は生きているから体温があることを感じる。『凍沱の河口』はそのような温度を持っている。

 私がそう感じたのは「死者達」とその世界と「母」とのコントラストが印象的だった為だ。

 「地吹雪吹き荒れて」「音立てて凍る空知野の雪原」「死者たちが無言の氷柱」となっている、とんでもなく寒い世界は死の世界だろう。「河が三本あって 橋を三つ越えてきて」とあるから、三途の河の向こう側だと思う。そこに「発熱する母」がいる。ぽかぽかぬくぬくといった柔らかい温かさではなく、メラメラと燃え盛る炎のような激しさでも無い。皮膚の下からじりじりと赤くなってほてっている姿を思い浮かべた。そこで母は「生命の告示をひとすじひとすじ 絹糸を吐くように吐き出している」。病院で危篤状態の患者が付けている酸素マスクが曇ったり晴れたりする様をイメージした。広大で寒々しい空間の中でたった一人で発熱する母が強調される一方、その息はとても弱々しい。

 そして、母がさまよっている生と死の境はとても曖昧なように感じた。三途の河があるものの、語り手はいつのまにか越して来ている。また、

「夥しく経験されているものでありながら名を与え得ぬ領域に向かってそこを踏み抜いていこうとしている発熱する母の……」

というようにダラダラと長い文が所々出てくる。リズムが取りにくい。うつらうつらとしながら言葉を並べている感じがする。「おう よお来たな~」という母の台詞からも詩のゆるさを感じる。しかしこれが母の最後の「帰れ」を引き立たせている。これでこの詩がぐっと締まる。寒空の中、発熱しながら弱っている母の言葉はゆるかったのに、最後だけキレがある。母の最期の言葉だろう。この「帰れ」に生命の力強さがどっしりとのっている。

 極寒の空間、死の世界の淵にいる母は実際にしている息はとても弱々しい。しかし、その生命の最期に語り手を「帰れ」と突き放す力強さがある。そしてその手は熱い。語り手はその時、母が生命であることを実感したのでは無いだろうか。

 ※当記事は2019年に書評サイト「シミルボン」に発表した記事の再掲です。サイト閉鎖により閲覧不可となったため再掲いたしました。


「黄泉幻記」林美脉子(書肆山田)

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