正しさと生について
あらかじめ言っておくが、この記事は瀬戸口廉也さんによる物語「SWAN SONG」をベースとした文章である。作品に触れる予定のない人間は知らないままに記事を読み進めても構わないと思う。作品に触れる予定が1ミリでもある人間は先に作品を読んでほしい。
まずはSWAN SONGという言葉の意味について。
こちらから引用すると、
ヨーロッパの伝承で、白鳥は死ぬ時に美しい声で鳴くと言われている。「白鳥の歌」とはつまり「瀕死の白鳥の歌」であり、人が亡くなる直前に人生で最高の作品を残すことを例えで指している[1]。紀元前5世紀から3世紀にこうした伝承が生まれたと言われていて、ヨーロッパで繰り返し使われてきた表現である。(wikipedia「白鳥の歌」概要より)
次に物語についての簡単な説明。
主人公の住む街はある日突如地震が起き、人が大勢死んでしまう。救援も来ないまま限られた物資で日々を過ごす中で、人間は少しずつ本性とも言える狂気を見せ始める、という内容だ。
雪が深々と降り積もるクリスマス・イヴの夜、とある山奥の地方都市を大地震が襲う。街は一夜にして雪と瓦礫と死臭に覆われ、辛うじて生き延びた若者たち6人は倒壊を免れた教会で出会った。身を寄せ合い、容赦なく押し寄せる現実を受け入れながら生還の手立てを模索する彼らは、やがて行く手を阻むように水没した街を筏で渡り、彼ら以外に生き残った人々が避難する学校へと辿り着く。
束の間の安寧を得、力を合わせて厳しい冬の異常事態を乗り切ろうとする彼らだったが、外部との通信が隔絶されたまま長期化する避難生活と逼迫する生活事情、そして他所に避難する人々との諍いの勃発が人々のこころの歯車を軋ませ狂わせていく。(wikipedia「SWAN SONG(ゲーム)」 ストーリーより)
瀬戸口廉也さんの作品は未だ「CARNIVAL」と「SWAN SONG」しか読んだことがない。にも関わらず、僕はその他の作品を読むことを非常に躊躇っている。理由は二つだ。そう思わせるほどに完成度が高かったことと、そう思わせるほどに苦痛な文章だったこと。
「CARNIVAL」を読んだ頃の僕は瀬戸口さんの作品が「芥川龍之介的」であると述べた。もっと言うなら「羅生門」や「桃太郎」などと同じテーマを有していると。そして今でもこのことは間違っていないと思っている。けれども「SWAN SONG」のことをどうしてわざわざ記事に残しておこうかと思ったかと言うと、この作品が一つの集大成であるように思えたからだ。先に述べた芥川に関わらず、全ての時代の人間によって幾度となく語られてきた価値観についての、瀬戸口廉也による徹底的な否定とささやかな肯定が「SWAN SONG」である。
この根幹に共通するテーマは芥川風に言うのなら「道徳」であり、瀬戸口さん風に言うのなら「正しさ」ではないだろうか。ここで言う正しさとは人としての正しさのことであり、正当である、正義であると言うことに近い。
「SWAN SONG」はそんな正しさ、決して相容れない人と人の道徳を徹底的にこき下ろした。
「CARNIVAL」が自分の正しさとそれ以外(自分以外の全て)の正しさと間に生ずる摩擦の話であるのに対し、「SWAN SONG」は複数の集団間に生じるもっと多種多様な正しさのすれ違いである。
正しさとは常に変化しうるものであり、そして個人間・集団間によって常に別の正しさを持ち合わせている。これはどういうことかというと、道徳や正しさというものは世界に初めから存在しているものではなく僕達の主観であるからだ。この作品においてはそう解釈できる。
つまり世界そのものに道徳はなく、世界に道徳を着色しているのは人間である。世界は本質的には何の善悪も持っておらず、それゆえに僕らは如何様にも解釈しうる。
だから、たとえ勝手な仁義の元の殺人や搾取目的の出鱈目な宗教ですらある意味では「正しい」ものと言える。
そんなふうにして考えていると、結局僕たちがやっているのは<世界にとって真実の正しさ>の模索でも、その伝導でもない(もちろんそんなものは存在しない)。僕たちはもっとエゴまみれで、自分の正しさ、自分の領域を相手に強要しているに過ぎない。
「SWAN SONG」の世界は地震によって大勢の人間が死んだ最悪の状況である。普段私たち人間社会はかりそめの秩序のようなものを形成しているけれども----それらはふとしたきっかけで簡単に崩壊しうる。(もともと秩序は偽物であり、個人や集団にはそれぞれ違った正しさの価値観があるのだから当然である)
災害により生き残るのも難しいそんな状況はまさにニセ秩序崩壊の好機である。そのような絶望的な状況においては、自分の正しさを押し付けなければ生きることすらできず、自我をあらしめることもできない。時には自分がこれまで持っていた正しさを簡単に捨て去ってしまう。
<殺人は最悪だからそれを犯した人間は正義の名の下にリンチして殺してしまおう、これは殺人じゃないよね?
確かに強姦はいけない事だけれどこちらに刃を向けた女は生きる価値がないから犯してしまっても構わないよね?>
といった、僕らにとって明らかに外道とでもいうべき理屈が提示されうるし、場合によってはそちらが法となる。
そもそも人間は常に多かれ少なかれ自己存立をしなければならないものである。震災により狂っていった人間だけでなく、狂わなかったように見える人間までも、自分の醜い感情を隠して機械的に生き、それによって虚像のような自己を保っているだけに過ぎない。だからつまり、生きることの価値なんてないに等しいのだ。
佐々木柚香「どうしたらいいんだろう。何もかもが無意味だって、どうしようもなく虚しいんだって、そんな感じがたくさん溢れて、どうしても止まらないんです。」
佐々木柚香「こんな世界に私は生き残ってしまって、みんなが大事にしていた貴重な生命を、私なんかが無事のまま持たされて、だから大事に生きていかなくちゃいけないって、私にはその義務があるんだって、それはわかるんです。でも私には、ここで生きることの意味が、どうしてもわからないんです。生きていることを、喜べないんです。」(作中より)
自分にも世界にも価値なんてない。ひどく醜い。その上もしも----主観的な正しさや自分の中での幸福さえも得られずに死んでいくとしたら、この世界はなんなのだろうか。生きていることとは何なのだろうか。素晴らしい生など----あり得るのだろうか?
震災・強姦・殺人・嘘まみれの宗教もどき。最悪の設定から正しさや生きることを否定され続けて、それでも人生の最後に、生きることは素晴らしいと思えるか。白鳥の歌のように。
そんな無理難題を提示したのが「SWAN SONG」である。
尼子司「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、人の一生は素晴らしいです。」
佐々木柚香「それはやっぱりきれい事ですよ。尼子さんは何も知らない。私には、無理ですよ。何も素晴らしいなんて、思えないです。」
尼子司「もっと公平に考えれば、思えるようになるはずです。勇気がたりないだけです。」(作中より)
これは「人と人は繋がりえない」という話だし、「正しさなんて存在しない」という話だ。そういったことは文学をはじめとした様々な媒体で語られてきたことだが、「SWAN SONG」の特色はやはり、それをこれまでにないくらいはっきりと明言し切ったことである。
こんな文章を書く人間が現代にいることに慄いた。はっきり言って驚愕した。
ゼロ年代を終えた僕らは意図的に本質から目を背ける<鏡>のような物語を避ける傾向にある。(サブカル小説では特に)
「SWAN SONG」はどう考えても最高傑作であるのだが、人として最低の醜い感情を僕の前にはっきりとした形で提示した。このドス黒い本質はきっと誰も生涯向き合わない方が良い感情であり、僕は一生「SWAN SONG」の提示した正しさに苦しめられることになるだろう。決してこの作品を誰かに読んで欲しいとは思わない。けれどももしこの作品に触れた人間がいたら話を聞かせて欲しい。僕1人ではこの絶望的な世界に対する解釈はできないだろうから。まだ、尼子司のように、生きていることを素晴らしいと言えないだろうから。