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【短編】 Lonesome Pool

興奮を抑えられない子どもたちの無秩序な足音に耳をすませていると、不思議と彼らの声が入ってくる。私の頭のすぐうしろで、ぴたぴたと忙しなく、あちらへ行ってはこちらへ引き返して、だれがいちばんに冷水プールに飛び込むべきかをこっそり話し合っている。少し離れたところに立っている監視員たちには聞こえないのかもしれないが、私たちには何もかもが筒抜だった。私たちのことを、どちらかといえば味方だと勝手に仮定しているのが何だかおかしかった。というよりも、私たちの姿は風景に同化してしまってほとんど見えていないのかもしれない。そういう甘い愚かさが、私はすきだと思った。幼いころはだれもが持っているけど、歳を重ねていくにつれて恥じるようになって、じきに悪とみなすようになり、徹底的に封じ込めようとしてしまうもの。

最初にプールに飛び込む人間を決めるための、理にかなった判断基準はそもそも存在しない。だから、それは突如としてどこかから降ってくる。

「じゃあ、おまえ行けよ。妹がいるのおまえだけだろ」

大人びた声をした男の子が少し乱暴な調子でそう言うと、私のとなりで壁に頭をもたせかけている彼が、目をつぶったまま呆れたようにふっと笑うのが聞こえた。頭を傾げてそちらを見ると、湯気にあてられて少し上気した横顔が愉しそうに緩んでいる。

私は頭をもとの位置に戻し、もう一度目をつぶる。先ほどの提案にほかの四人くらいも賛同して、唯一妹のいる男の子が最初に飛び込むことになったみたいだった。

「意味わかんねえよお」

わずかな苛立ちとたっぷりの高揚を含んだ声で彼は吐き捨てた。彼の青い目には、おそらくもう冷たい水面しか見えていないだろう。そして、一瞬空気に緊張の匂いがしたかと思うと、ぱしゃん、と水を弾く音がした。監視員が、おい、と声を張り上げる。飛び込んだ彼をけしかけた男の子たちは、咎められるのを免れるために、あるいは彼が自分たちについて何も言及しないことを祈るために、プールの対岸に回り、監視員に引き上げられる彼を眺めている。興奮と不安と罪悪感がないまぜになって、監視員に捕まったわけでもないのにみんなで身を寄せ、薄ら笑いを浮かべながら怯えている。

監視員に腕をひかれてプールサイドを歩く少年は、右手で顔を覆っていた。その指のあいだからは水っぽい血が流れて、手の甲から真っ赤なしずくが滴り落ちている。呆然とする男の子たちと一緒にその行方を目で追うと、彼はじつに美しく医務室に入っていった。扉が閉まると、固まっていた少年たちはお互いの顔を見合わせ、足元に地雷でも埋まっているみたいにそろそろと医務室に向かった。扉に描かれた赤い十字が、妙に赤黒く浮き出ているように見えた。

「飛び込んだ男の子、見た?」

ふいに彼が私に尋ねた。彼はもう目を開けていて、眠たそうな目で私を見ると私の耳のそばに軽く唇をつけた。

「見たわよ」

「何色の髪だった?」

「うすめのブロンドだった」

「なんだ、黒かと思ったんだけどな」

そう言って、彼はゆれる水面をなんとはなしにぱしゃぱしゃと叩いた。

「どうして?」

「さあね。なんとなくだよ」

額にかかる濡れた前髪をざっとかきあげて、彼はあくびともため息ともつかない息をゆっくりと吐いた。ぐっと背中をそらして大きく伸びをすると、体の向きを変えて壁を蹴り、斜めに私と向き合うかたちになった。

「いいところだね」

「そうね」

そっと頭をもとの位置に戻し、私はうすく白む橙色の空を仰ぎ見た。空気中に浮遊しているいろいろなものがとけあって、私たちが息を吸う世界をやわらかく包み込んでいる。切り裂かれたように淋しくなる夏の死ぬ匂いは、その混ざり合ったもののあいだを吹き抜けた風が運んでくるのだろう。あの鮮やかな空気と私がいま吸っている空気は、何かが違うんだろうか、と考える。本質的には何も変わらないはずだ。しかし、私をとり囲んでいる空気も遠いところから見れば美しい色みを帯びているのだろうかと考えると、少しだけ哀しい気持ちになった。

「ちょっと話をしてもいい?」

「何の?」

「二段ロッカーがたくさん置いてあって、片側の壁に素人がしつらえたような更衣室が並んでる部屋の話」

私がもったいぶると、彼はつかの間考えて「ああ」と声をもらした。

「ここのロッカールームのこと?」

私は頷いた。

「荷物をもって、私は真ん中あたりの更衣室に入ったの」

「うん」

「それで、私は緑色に塗られた扉を閉めた。そうしたら、その扉の裏側に『12:24』って彫ってあったの。左下の隅のほうにあったんだけど、わりに大きく描いてあったからすぐに気づいたわ。それで、どういうわけかそれがものすごくていねいに彫ってあるの。私、最初は全然気にしていなかったんだけど、その静けさみたいなものがだんだん怖くなってきて、急いで着替えを終えてそこから飛び出した」

「なるほど」彼は目尻を指でこすりながら言った。

「たしかに居心地の良さそうなところではないね」

彼は頷き、口元に手をあてて数回乾いた咳払いをした。

「あそこにいる間じゅう、ずっとだれかに見られてるような感じがしてた。体がこわばっちゃって、水着をつけるのも一苦労だった」

「だから、着て行ったらいいんじゃないって言ったのに」

「一体だれがロッカールームでそんな目に合うって想像できるのよ? 私が言いたかったのは、とにかく怯えてしまっていたということ」

視線を彼から外すと、明るい緑色の水着を着た女の子が目に入った。十五メートルくらい離れたところ、談笑している大人たちの間を、彼女は不恰好な背泳ぎで進んでいく。もう少しでプールサイドにたどり着くというところで、少女はスロープをなぞる手すりに頭から衝突し、ぶくぶくと沈んだ。そして大げさに水しぶきを立てて浮かび上がると、大声で泣きながら、水のなかを母親のもとへ戻っていった。

「夜と昼、どっちかな」

「わからない。もしくは、どちらでもないのかも」

「どういうこと?」

「比率だったら、どちらでもないでしょう」

私が言うと彼は眉間にしわを寄せ、しばらく考え込んでいた。そうしている間に二組の家族がプールから出ていき、ロッカールームの入り口あたりで細身の男の子がピンク色のアイスクリームを落とした。

「われる......」

彼がぼそっと呟いた。

肩の力を抜き頭上を見上げてみると、空はずいぶん抽象的なものになっていた。たったいままで白煙にかすんだ茜色みたいだったのに、ふと気がつくと沁みるような紫紅色に変わっている。ほどなくして薄暮がやってくるんだろう、と思うと、私はまたうっすら哀しくなった。

上体を水面から出さないまま、彼は私のとなりまですうっと移動して私の右肩に頭をのせた。そして、水中で私の手を握った。寄りかかる頭にほおを当ててみると、濡れた黒い髪がひんやりとつめたかった。

私は彼の手を握り直した。水のなかで手を握るのは妙な感じがして落ち着かなかった。彼の手と私の手が組み合わさっているという感覚が、不自然に遠いところにあった。それを隙間に入り込んでくる水のせいにして、おもむろにぎゅっと力を込めると、急に鋭い寂しさがこみ上げてきて喉がつまった。彼に抱きしめてほしかった。いっそのこと泣いてしまいたいとも思ったが、寂しさは胸のなかでじりじりと渦巻くばかりで、一向に涙になってのぼってきてはくれなかった。彼が頭を少しもたげて、私の首にキスをした。それは温かくもなければつめたくもなかった。

「そう少しで日が暮れるわ」

私は独り言みたいに言った。

「そろそろ上がる?」と彼が消え入るような声でいうのが聞こえた。

プールはそれなりに混んでいたものの、窮屈に感じるほどではなかった。左側に少し離れたところには、サイケデリックな色の水着を身につけた老婆がひとり、ぼうっと前を向いたままほとんど動かずに座っていた。だれも彼女には話しかけなかった。ほかの客の立てる小さな波が、ひどい猫背によって前に押し出された腹の上でゆらゆらと揺れていた。だらんと垂れ下がって半分ほど水につかった腕には、干からびた川のようなシワが幾本も刻まれていて、薄茶色の細かいしみが目立った。彼女はときどき我に返ると、苦しそうに唾液を飲み込んだ。

そのうち、彼女の体は水を境目にふたつに割れ、水面から出ているほうが波にのってゆっくりと流されていった。片割れをもといた場所に残して、それは不規則に揺れながらも見事に人々のあいだを縫っていった。そしてプールの端までたどり着くと、肘から先がない腕をついて水から上がった。彼女は体を引きずってプールサイドを囲うフェンスまで行き、それをすばやく乗り越えるとあっという間に消えた。

「大丈夫?」

ぎょっとして振り向くと、彼の怪訝な顔があった。彼は私の顔にそっと手をあてると、親指でこめかみのあたりを何度かさすった。

「どうかした?」

「ううん」

彼の手を払うように視線を戻すと、老婆は先ほどと何ら変わらない様子で座っていた。彼女に見えているものは、私には見ることができなかった。

「上がりましょう」

私たちは背中をもたせかけていたところからプールサイドに上がり、タイル張りの濡れた床をロッカールームの入り口まで歩いた。二手に分かれるところで、私は彼の首に手をかけて慎重に唇を重ねた。

「大丈夫?」

私は頷いた。

「じゃあ、またあとで」




先月に書いた短編から抜粋。同じ時間、同じセッティングに居合わせた人々のうち五組をすくい取り、それぞれに視点を移しながら書いたものがもとのものです。このパートが個人的にはそのなかでいちばんよかったと思うので載せてみました。たぶんこれから書くものはいくらか異なってくると思うので、備忘録として。


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