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【短編】グリーン・ドルフィンの丘で

父親の運転する車から初めてその家を見上げたときも、テンは不穏な感覚にとらわれたのだった。水で溶かしたような雲が覆う青空のもと、丘の緑が春風にそよぐ中で、その白壁の一軒家は景色から逸脱して見えた。見失わないようにと窓に額を貼りつけたまま、テンは前に座る両親に向かって、右手を見るように促した。あそこ、おばけ屋敷があるよ。両親はテンが指差すほうへと視線を向けたが、丘の上に建つ白い家だと言われるまで、彼らにはどの家が「おばけ屋敷」なのかが分からなかった。あの家のことを言ってるの、とくり返し確認してから、テンの母親は可笑しそうに笑った。

どうしてあれがおばけ屋敷に見えるの? ふつうの綺麗なお家じゃない。

立派な家だと思うけどね、と父親もそれに被せるように呟き、交差点の赤信号で停車すると、ふたりは揃ってテンのほうを振り返った。自分に向けられる四つの目に居心地の悪さを覚えたテンは、よく分かんない、と戯け、大袈裟に肩をすくめてみせた。実際のところ、何がその家を周囲から浮き立たせているのかは、テンにもよく分からなかった。服の擦れる音だけに満たされた時間がしばらく流れ、信号が青に変わると、車は再びすうっと走り出した。生まれた街を去る際、隣の家族から受け取った花束を握り直しながら、テンは木漏れ日を浴びる丘の上の家を、窓を下ろしてもう一度見上げた。隣の座席では、大学に通う兄のルコが、寝息も立てずに静かに眠っていた。

学校からの帰り道、テンはふいにその日目にした光景を思い出し、通学路を外れ、丘を望める河辺へと足を向けた。街に越してきてから一ヶ月が経とうとしていた。名前のない錆びた橋の中程で立ち止まり、太陽に背を向けると、街を埋める家々と丘を一遍に眺めることができる。西陽に照らされる白い家が目に入ると、テンはやはり、胸がふつふつとざわつくのを感じた。街を向いた窓の内側には布が掛かっており、人がいるかどうか確認できる状態ではなかったが、そのすぐ向こう側から、何かがこちらをじっと見ている気がしてならないのだった。或いはその家に誘われると同時に、来ることを拒まれているような。テンは赤茶色に変色した鉄骨を指先で撫でながら、窓辺に人影が現れはしないかと目を凝らした。太陽が稜線に沈み始めると、白い家の窓に陽光が反射し、テンの視界に放射状の線を引いた。

あの家、どんな人が住んでるんだろう。

すっかり日が落ちても、窓は閉じたままだった。空腹と、冬の気配を残すしんとした夜気に耐えかねて、テンは帰路についた。それは冷え込む日の多い春だった。家に着いてしばらくすると、テンの母親が仕事から帰宅し、次いで父親、最後にルコが帰ってきた。母親はスーパーで買った野菜や肉を冷蔵庫にしまうと、不満を溢しながら夕食づくりに取り掛かった。その愚痴はたいてい彼女を手伝わない家族へ向けられていたが、それならとテンが手伝いを申し出ると、断られるのが常だった。疲れや苛立ちを完全に覆い隠してしまわないよう、目元に裂け目を用意した微笑を貼りつけて、もう特にないかな、と彼女は決まって言った。そして

いつも遅くなってごめんね

と後につけ加えた。テンの母親にとって、他者が差し伸べる手はいつも手遅れだった。テンやルコが不満を先回りして家事をこなしてみても、結局は彼らの至らなさばかりが目に映り、彼女が嘆く辛苦の埋め合わせにはならないのだった。夕飯が出来上がるまでの間、両親のもとへ行く気にもなれなかったテンは、向かいのルコの部屋を覗いた。薄暗がりのなかでヘッドフォンをはめたルコは、扉が開いたことに気づかず、お兄ちゃん、とテンが声をかけても、ラップトップの画面に見入ったまま身じろぎひとつしなかった。ドアノブを捻ってそっと扉を閉めると、テンは自室の明かりを落とし、ベッドに寄りかかって音楽を聴いた。遠い国の知らない言語で歌われる音楽が、テンは好きだった。

隣の隣に住んでる人がうちの車見たらしくて、さっき話しかけられたよ。炒め物を箸でつまみながらテンの父親が言った。随分したんじゃないですかって訊かれたから、そんなに大したものではないですよって返したよ。嫌味に聞こえてないといいんだけど。父親と母親が笑う傍らで、ルコは俯いたまま、黙って目の前の料理を口に運んでいた。それは食事というよりも作業のようで、テンには息を止めているようにすら見えた。近くにいるだけで息苦しくなるような気配だった。両親の会話が途切れると、点けっぱなしのテレビの音が四人の間に流れ込む。聞こえた話について母親が父親に尋ねると、彼は質問の主旨には見合わない的外れな知識を、得意げな表情で語ってみせる。そこで母親がもう一度同じ質問を投げかけると、そんなの知らないよ、と言って、彼はその疑問自体が取るに足らないものであるかのように振る舞う。毎晩くり返されるそのやりとりが、父親の凝固したエゴを慰めるために交わされているのはテンにも分かっていた。話したいことも、話すべきことも見つからず、カラフから注いだ水を飲んでいると、母親がテンの名前を呼んだ。

学校で友だちできた?

テンは頷いて、人差し指を立てた。一人でもできたのならよかった。隣に座る父親も微笑みかけてくれ、テンが思わず向かいを見ると、ルコはぞっとするような形相で父親を睨んでいた。テンは咄嗟に視線を逸らした。ルコに悪いことをしてしまったような気がして、ごまかすように味噌汁をすすったが、塩っぱいのか甘いのかよく分からなかった。ルコが間もなく席を立ち、部屋の扉を閉めると、母親が短いため息をつく。あの子はどうしてああなっちゃったのかしらね。テンはそのとき、母親に対して初めてはっきりとした怒りを覚えた。

窓際の席に座り、始業までの時間を音楽を聴いてやり過ごしていると、ふいに誰かがテンの肩を叩いた。それ、見つかったら没収されるよ。リンはそう言って、リュックサックをテンの前の席に放り投げた。そして椅子の背もたれに肘を掛け、テンに向かい合って座った。週末に刈り上げたばかりらしく、頭が青かった。

何聴いてたの?

オアシス、とテンが答えると、ぼくの叔父さんのバンドだ、と彼は言った。そうなの? 目を見開いたテンを見て、リンはけらけらと笑った。冗談だよ、ぼくの叔父さんはとんでもない音痴だぞ。曲を聞かせてほしい、と言うリンにイヤフォンを渡し、テンは今しがた聴いていた曲を再生した。リンは視線を床の木目に這わせ、四分間ひと言も喋らずに曲に没頭していたが、あと二十秒を残すところで担任の教師が教室に現れた。テンが急いでプレイヤーを机の中にしまおうとすると、リンはわざとらしい泣き顔をつくった。ぼくも机にしまってくれ。テンは彼が伸ばす腕を払いのけ、前を向くように促した。教壇に上がった教師が号令をかける。あとで続き聞かせろよ、と言いながら、リンは椅子に座り直した。後頭部の小さな縫合痕が目に入り、テンはふいに、彼が初めて声をかけてくれた日に呼び戻された。それは転校直後に開かれた全校集会だった。

その日は雨が降っていた。生徒は五限が始まるまでに体育館に集まるよう指示されていて、テンは昼休みを校舎の端のトイレでやり過ごした後、決心を固めて体育館へ向かった。校舎との間をつなぐ外通路を早足で渡り、両開きの扉からそっと中に入ると、すでにほとんどの生徒が集まっていた。何人かの生徒が自分のほうをじっと見つめるのを、テンは不快に思った。クラスごとに並ぶようにとスピーカー越しにアナウンスがかかると、生徒たちは地鳴りのような音を立てながら、蠢動する大きな虫の群れになって波打った。彼らのぐるりは教師たちが結ぶ線に囲まれている。テンは喉の奥に空気を集め、もぞもぞと動くそれに分け入っていった。混ざり合う匂いと気配がテンの皮膚に張りつき、ずるずると渦を巻く。音が遠のいたかと思うと、整列はほとんど済んでおり、テンもクラスの男子の列にいた。

おい、そこ!

前方の舞台に立つ黒いジャージを着た教師が、ある一点を指差して吠える。テンは身体を強張らせた。その教師の苛立った目が自分に向けられていることは、定められた位置から一歩左に外れたまま、肩を硬直させて動けなくなっているテンにも分かっていた。戻らなくちゃ。テンは奥歯を噛み締めた。そして脚をずらそうとしたが、冷や汗で濡れた脚はいくら力を込めても動かなかった。たった一歩、多くの人がたったそれだけで埋められる距離が、テンにとっては永遠のように遠いのだった。おい聞いてんのか、お前のことだよ! テンを指差しながら舞台上をうろつく教師は、その語気とは裏腹にひどく動揺していた。それを見た他の教師が動き出し、テンの立つ場所へ向かう。

また駄目かもしれない

そう思い、羞恥と絶望の中で顔を上げると、前の坊主頭が目に入った。綺麗な形だった。後頭部のやや出っ張った辺りについた白い傷跡が、頭皮の青さとの対比で薄く輝いて見える。近づいてくる人の気配を感じながらも、そこから目を離すことができずにいると、ふいに坊主頭が後ろを振り向き、テンに向かって笑いかけた。それは周囲からひそひそと聞こえてくるような嘲笑ではなかった。それは、一目見れば連帯の合図だと分かるような、ぬるりとした微笑だった。お前いかれてるな。テンは彼がそう囁くのを聞いた。そして半ば呆然としている間に、ふたりは彼の手によって教師たちの追求を躱し、保健室に逃れた。水を飲んでベッドに横になっている間、テンは彼の名前を訊いた。どこかで耳にしたことのある名前だった。面と向かって相手の名前を口にするのは気が引けたが、リンに名前を呼ばれると、それが自分の名前だということを、テンはいつになく納得できた気がした。

そういえば、図書館にオアシスのアルバム置いてあったんだよ。帰り道を並んで歩いていると、リンが興奮した調子で言った。初めて聴くアルバムだったけど、あれは良かったな。なんて名前だったっけかな。ルコが家で口を開かなくなってからというもの、音楽の話をする相手がいなくなったテンは、リンが興味を示してくれることが嬉しかった。今度、学校終わった後で一緒に聴こうよ。テンが言うとリンは頷いて、足元でさざめく街路樹の影をさっと飛び越えた。信号のない交差点でお互いに手を振った後、テンはリンに訊ねたかったことを思い出し、彼を引き止めに来た道を戻った。後ろから肩を軽く叩くと、リンは驚いて身体を仰け反らせた。あまりにひどく吃驚したせいで、彼はテンの袖を掴んだまま、しばらく息が落ち着くのを待たなければならなかった。ごめん、大丈夫? リンは何度か頷くと鼻で深い息を吐き、テンを見た。あのね、一緒に来てほしいところがあるの。

川に架かる橋から、テンは丘の上に建つ家を指差した。あそこに誰が住んでるのか知ってる? 隣のクラスの女の子だよ、とリンが答えた。なんていう子なの、とテンが訊くと、名前は知らないな、と彼は頭を掻きながら言った。そして、入学してからというもの、彼女が学校に顔を見せたことがないため、会ったことのある生徒がひとりもいないことを説明した。それゆえ、彼女の素性にかかる情報は、大人たちの口から伝えられる僅かな言葉に限られているのだ、と。とても良い子だって先生たちは言ってるけどね、とリンは肩をすくめた。名前くらいは名簿で分かるんじゃないの? テンが訝しげにリンを見つめると、彼は首を横に振った。

載ってないんだよね。聞いたところだと、その子の親が消すように言ったらしい。

翌日、早めに登校したテンは、まだ明かりの点いていない隣のクラスにそっと足を踏み入れた。教室前の掲示板に画鋲でとめられた名簿に顔を近づけると、リンが言った通り、縦に並ぶ名前の下方に一マス分の空白があった。席の位置に照らすと窓際の後ろから二番目で、それはクラスを移せば、テンの座る席と同じ場所だった。曇り空を透過した朝日が、薄灰色の光を窓辺に落としている。テンは机の間を音を立てないように縫うと、生徒が集まるにつれて空白になっていくだろうその机を、指の腹でそっと撫でた。表面はざらざらとした埃にうっすらと覆われていた。同階の廊下から幾人かの喋る声を聞き、はっと我に返ったテンは、身を屈めてそそくさと隣の教室に戻った。窓際に座って音楽を聞くふりをするテンに、同級生たちは押しつけるような視線を向け、何も言わずに教室の前を通り過ぎていった。テンはその日、休み時間のたびに隣のクラスを見に行ったが、その女の子が姿を現すことはなかった。

今日はふたりとも仕事で遅くなるから、お兄ちゃんと先にごはん食べてね。昼過ぎに受信したメールを読み返しながら、テンは帰路を歩いた。学校から少し離れた公園の、両端が腐り落ちたぼろぼろのベンチに座って、リンが図書館で借りたというアルバムを一緒に聴いた帰りだった。それは彼らの肌に馴染んだ放課後であり、テンが恒常的な緊張から抜け出ることのできる唯一の時間だった。音楽の前にあっては、何者でもない自分のままでいることがすべてだった。そしてたとえそれがうまくいかなくても、それすら肯定するのが音楽であり、その本質は彼らの耳元で、彼らが望むだけ反響した。これずっと鳴っててほしいな。レディオヘッドを聴くリンの横顔に滲んだ、必ずしも言葉には表されていない感覚の影を、テンは何も言わずに眺めた。

鍵を開けて扉を引くと、ルコの汚れたスニーカーがあり、電子レンジで何かを温めている音が奥から聞こえた。ルコは台所にいて、いくつかのタッパーに入った作り置きのおかずを、ふたり分の皿に移しているところだった。ただいま、と控えめに声をかけると、ルコはテンを一瞥した。

おかえり。

ふたりはテーブルに向かい合って腰掛け、母親が昨晩遅くまでかけて作っていた料理を食べた。天井からぶら下がる照明を見上げたルコが、宙空にぼんやりと視線を浮かせたまま、口に運んだ煮物をゆっくりと咀嚼する。ちらちらと向かいに目をやりながら、テンは長いあいだ兄のことを見ていなかったように思った。その兄が、今ようやく目の前にいる。何処か別の場所に向かって絶えず手を伸ばしていた兄が、今はその手を降ろし、椅子に座って食事をとっている。お兄ちゃん、と箸を止めて言うと、ルコは口を動かすのをやめ、テンに視線を向けた。

元気?

ルコの褐色の瞳がぐらりと揺れた。そして、潰された虫が死の間際に脚をひくつかせるみたいに、もぞもぞと口の中のものを数回噛むと、苦しそうにそれを飲み込んだ。元気だよ。ルコの目の下は暗くなっていて、テンは常々それを化粧のようだと羨んでいたが、歪んだ表情に浮かぶそれは痣のように見えた。喉が渇くのを感じ、テンが麦茶を飲むと、ルコも水の入ったコップを傾けた。液体のような沈黙がふたりの間に溜まる。水を飲み下したルコが小さく息を吐くと、それはテーブルから溢れて薄く広がり、ふたりの柔らかい素足を浸した。もうぼくとは話したくない? 細い声でテンが訊くと、ルコは驚いた顔で首を横に振った。どうしてそんなことを訊くの。ぼくたちが話さなくなったのはお兄ちゃんが黙ったからだよ。ルコの表情が再び痛みに堪えるようにかすかに歪み、テンは動悸が速まるのを感じた。激しく収縮する血管は次第に身体を揺らすようになり、テンは自分がひとつの心臓になったような気がした。

テンとはもっと話したいと思ってるよ。ルコは咳払いを何度かすると、手元の皿に視線を落としたまま言った。だけど、あの人たちが近くにいる間は無理なんだ。言葉が出てこなくなって、話したかったことも忘れてしまう。ルコの言う「あの人たち」が、ふたりの両親を指していることを、テンはすぐに理解した。そして、母親がルコのことを「あの子」と呼んでいたことを思い出した。いいか、テン。名前を呼ばれて目を上げると、ルコと目が合った。難しいことを言うかもしれないけど、

何者でもないことを認め、受け入れようとしてこなかった人間の末路があれだ。あの人たちは特定の価値観のもとでしか機能しない、非本質的な価値に縋ってばかりで、存在の揺らぎにはまるで向き合おうとしていない。哀れで、惨めで、もう取り返しがつかない。そういう人間の近くにいると、ぼくは絶望してしまうんだよ。ぼくは、あの人たちが憎くて仕方がない。

噛み潰すように言うと、ルコは背もたれに身体を預け、電話機の上の掛け時計に目をやった。針は七時四十分を指している。お母さんとお父さんは、ぼくたちがいなくなっても気にしないってこと? そうじゃない、とルコは頭を振った。でも、あの人たちがぼくらを愛しているのかどうか、ぼくには分からない。ふいに火花のような頭痛が脳の中心で弾けるのを感じ、テンは顔を顰めた。ルコはそれには気づいていないようだった。

あの人たちの愛は規範でがんじがらめになってる。それこそ、愛をそれなしには考えられないくらいにね。だから、彼らは「家族愛」とか「恋人」みたいな言葉を使って、愛を分類しようとするんだ。それだけじゃない。彼らは愛を、自分たちが捏ね上げたそういう言葉から理解しようとまでする。規範に沿うように作られた概念から遡って愛を知ろうとすれば、自分たちの安心を脅かすことのない範囲でしかそれを捉えられなくなるのは目に見えてる。愛するとは何かを知るためには、そんな向き合い方では絶対に感じられない痛みを、言外の孤独で経験しなければいけないはずなんだ。

膨らんだり食い込んだりする頭痛に耐えながら、テンはルコの表情を読み、気配の変化を感じ、そして、母親と父親の顔を思い浮かべた。しかし、いくら交錯するイメージと言葉を掻き分けても、ルコが両親に対して何故それほどの憎しみを抱いているのか、テンには理解することができなかった。ルコはさらに話を続けようとしたが、戸惑うテンを見て、口にしかけた言葉を濁した。捲し立てちゃってごめん。そう呟き、顔を手のひらで擦るルコに向かって、テンは口を開いた。でも、

ふたりがいなかったら、ぼくたち生きてこれなかったよね。

お母さんは仕事で疲れててもごはんを作ってくれるし、お父さんだって、働いてるのはそれが好きでたまらないからっていうよりも、ぼくたちがいるからでしょ。ルコはテンを真正面から見て、確かにそうだ、と頷いた。ぼくが言いたいのは、自分たちの考えやそこから導かれる行為が何によって形作られているのかに、あの人たちがほとんど注意を向けてないってことなんだ。母さんだって、疲れてるんならスーパーで出来合いの惣菜を買ってくるか、ぼくらに任せるかすればいいのに、理想的な母親であろうとするばかりに自分の身体に鞭を打ってる。その理想が普遍的なものでも何でもないってことを説明しても、まるで聞く耳を持たないだろ。自分を縛っている規範から脱して、分からないものに対峙するのが恐いんだよ。

ルコはそう言い切ると、冷めた煮物に箸を刺した。そのとき、テンはいつか母親に抱いた怒りと似た感情が、ルコに対して湧き上がってくるのを感じた。規範に縛られているからって、お母さんがごはんを作ってきたことと、お父さんが働いてきたことは、なかったことにできないよ。そう言った瞬間、テンはルコの眉間にどろっとした影が滲むのを見た。それを純粋な愛じゃないからって、そんなふうに足蹴にしてもいいの? すぐにそれを、愛していないかもしれないって疑ってもいいの? それは愛するということなの? 衝き動かされるままテンが捲し立てると、ルコは前を向いたまま、ひどく寂しそうな目をした。ルコの瞳には誰も映っていなかった。テンは何か言葉をかけなければと思ったが、徐々に強まる頭痛に気が散ってしまい、結局、何も言うことができなかった。

間もなくして両親が帰宅すると、ルコは今までのように顔を伏せ、無言のまま自室に籠もった。テンはルコの言葉を頭の中でくり返しながら、部屋の中をあてどもなく歩き回った。アルコールの臭いを漂わせながら上機嫌でテレビに話しかける父親を見ると、ルコが絶望的な気分になるのも分かるような気がしたが、世俗的なものを素直に享受する彼を否定しようという気には、どうしてもなれなかった。その夜、寝つけなかったテンは、リンが「ずっと鳴っててほしい」と言ったアルバムをくり返し流しては、向かいの部屋にいるルコのことを考えた。そして、夜更けにこっそりとルコの部屋に集まり、同じ掛け布団の下に潜ってふたりで延々と音楽を聴いた夜を思った。それは数年前のことだったが、テンはその夜の色を今でも鮮明に思い出すことができた。そして、毎晩やりたいとテンが申し出たとき、それはできないよ、とルコに笑われたことも。

それ何?

帰りのホームルームの後、テンが錠剤を飲んでいると、ほうきに跨ったリンが視界の端に現れた。頭痛薬、とひと言返すと、頭痛いんだ、とリンが確認するように言う。ルコとふたりで夕食をとった日以来、テンは頻繁に頭痛を起こすようになっていた。それはテンの意識の隅で、テレビの砂嵐のように薄く光りながら、切れ目のないノイズを放っていた。これ飲めば治るから大丈夫。テンが微笑んでみせると、じゃあ掃除終わったら帰ろうな、とだけ言って、リンはほうきに跨ったまま教室の外に出て行った。窓の外は鼠色で、湿った風からは雨の匂いがした。

車道の端の白線をなぞりながら、テンは丘の上に住む女の子についてリンに質問した。学校で配られる手紙とかどうしてるの? リンは、彼女の家にたどり着くには丘の麓にある林を抜けなければならないことを説明した。昼でも暗いから子どもは入るなって言われてるんだ。一回行ったことあるけど、寒くておっかないところだったな。それ故、手紙はすべてメールで送られており、誰かが届けに行く必要はないということだった。まるで隔離されてるみたい、とテンがもらすと、リンが訂正した。されてるみたいじゃなくて、されてるんだ。

ここの人はみんなどうかしてるよ。

公園で音楽を聴き、夕闇の降りた交差点でテンが手を振ろうとすると、なあ、とリンが引き止めた。もう少し遊んでから帰ろうよ。悪戯っぽく微笑するリンに惹かれて、テンは頷いた。でも、何するの? リンが指差したのは彼の帰り道で、立ち並ぶ家屋に挟まれた街灯の少ない道だった。まっすぐに進むと駅に通ずる大通りに出ることができる。生温い風が光の沈んだ地平線から吹きつけ、テンの髪を弄ぶように梳くと、それはふたりの手を引くように通りに呑み込まれていった。面白いところを知ってるんだ。突然走り出したリンの背中を追いかけながら、テンは交差点に反響するふたりの笑い声が遠ざかっていくのを聞いた。

大型スーパーの前に来ると、リンはテンのほうを振り返った。テン、お腹空いてない? 夕飯にはまだ幾分早く、それほど空腹を感じてはいなかったものの、テンは頷いた。何か買って食べよっか。しかし、テンが自動扉をくぐろうとすると、傍から袖を引っ張るリンの手に引き戻され、ふたりはそのまま人気のまばらな駐輪場まで移動した。空は隅まで黒く濡れていたが、野球場で目にするような背の高い照明に照らされて、ふたりの足元には濃い影が伸びていた。買うんじゃなくて、とるんだ。盗むってこと? そうだと頷くリンはあっけらかんとしていて、テンは返す言葉に窮した。リンはテンのそばに身を寄せた。カゴいっぱいに盗ろうっていうんじゃない。おにぎりふたつとか、それくらいだよ。リンが何のためにそう言ったのか、テンはいまひとつ理解できなかったが、少なくともその平然とした様子は、テンが普段から目にしている彼の姿だった。わかった、とテンが頷くと、リンは溢れるような笑みを浮かべた。

心配するな、ふたりでいれば大丈夫だから。

広々とした店内は光に満ちていて、テンはどこを歩いていても、誰かに後ろをつけられているような気がした。落ち着きなく辺りを見回すテンの背中を、リンが軽く叩く。食べたいものを選ぶんだぞ。パッケージされた商品がひしめき合う棚を抜けながら、テンはこの通路がどこまでも伸びて終わらない画を思い浮かべた。それは盗みに対する恐れよりも、どちらかといえば、自分が望むものを手に入れたいという欲に依拠したものだった。名前を呼ばれて我に返ると、テンはラップに包まれたおにぎりが並ぶ低い棚の前にいた。何か食べたいものあった? ううん、とテンは頭を振った。じゃあ、おにぎりでいいか。リンはそう呟くと、具材別の列に顔を近づけて物色し、中からふたつを手にとった。リンに倣い、テンも棚のそばに身を屈める。しかし、満腹感のような吐き気が胸に詰まって、ひとつとして手を伸ばす気になれなかった。屈んだまま動かないテンにリンが顔を寄せる。選べそう? テンは首を横に振った。

わかった、今日はもう出よう。

支えられながら立ち上がったテンは、リンの両手に依然としておにぎりが握られているのを見た。そして、走る覚悟だけしといて、とリンが囁いたとき、頷くことしかできなかった自分を他人事のように笑った。時々他の客とすれ違いながら、ふたりは背丈をゆうに超える棚の間を抜けていく。テンの一歩前を行くリンの足取りは軽やかだった。出口はすぐに目の前に現れた。幾人かの客が入っては出て行くのを眺めた後、ふたりは自動扉をくぐり、リンの合図で走った。外は雨が降っていて、傘を差して歩く人々の脇を抜けるたび、ふたりは身体を小さく屈めなければならなかった。雨粒に目を瞬かせながら無心でリンの後を追う間、テンの背後では、全校集会でテンを怒鳴りつけた教師の声がくり返し響いていた。

ふたりは駅近くのデパートに入った。エスカレーターを駆け上がり、おもちゃ売り場の階まで上がると、ふたりはリンの合図で奥のトイレに走った。中に人はいなかった。順に同じ個室に駆け入ると、リンは素早くスライド式の鍵を閉めた。しばらくの間、テンの感覚が捉えるのは自分たちの呼吸だけだった。それでも、ラッピング紙のような店内の音楽が遠くに聞こえ始めると、少しずつ太腿の筋肉に痛みが滲み、それに次いで、刺すような空腹を下腹部の奥に覚えた。テンの向かいに座り込んだリンが、濡れた顔と頭を袖で拭い、片手に持っていたおにぎりをテンに差し出す。不格好に変形したそれは、リンの手の熱でかすかに温かくなっていた。

狭い個室の中で、ふたりは盗んだおにぎりをそれぞれ頬張った。テンの分には身をほぐした鮭が、リンの分には海苔の佃煮が入っていた。濁声で独り言を喋り続ける老人が用を足しにくると、リンは笑いを堪えて顔を真っ赤にした。身振りで声を出さないよう伝えながら、テンはその老人の言葉に耳を傾けたが、どれだけがんばって言葉をつなぎ合わせても、何の話をしているのかさっぱり理解できなかった。足を引きずる音とともに声が少しずつ遠ざかり、ふたりは口を押さえたまま顔を見合わせる。あれはずるいよな、とリンがため息を吐きながら言ったが、テンはそれに返事をしなかった。

ラップを個室内のサニタリーボックスに捨て、ふたりはトイレを後にした。すれ違う人々はずぶ濡れのふたりを目で追いはするものの、誰も声をかけようとはしなかった。「引く」の表示がセロテープでとめられたガラス戸を押し開け、分厚い雲を見上げたふたりは、再び雨が降りしきる中を走った。雨足が弱まる気配はなく、それはますます強くふたりの肌を叩いた。途中でリンと別れ、残りの帰路を急ぐテンが行手を見やると、点滅する街灯が一本、アスファルトを照らしていた。その足元に置かれた段ボール箱には何も入っておらず、テンが覗き込むと、暗く濡れた箱の底だけが冷たい闇に滲んでいた。

扉を開けたテンは、家の中をうろうろと彷徨う母親に出迎えられた。慌てふためく彼女の手に頰を包まれ、テンはようやく自分の身体が冷え切っていることに気がついた。唇が紫色になってるじゃない。母親は叱りつけるように言うと、バスルームの戸棚から大判のバスタオルを引っぱり出し、靴を脱いだテンに投げて寄越した。頭を抱えて奥に引っ込んだ母親を横目に、テンはスクールバッグをバスタオルで拭き、濡れた服を脱いで湯船に浸かった。身体中を巡る脈動で、湯がかすかに揺れていた。

水面の波紋を眺めていると、父親が帰宅する音がし、間もなくふたりの言い合いが風呂場まで聞こえてきた。テンは肩をきつく縮こまらせた。そして息を止め、じっと耳を澄ませたが、重なり合うふたりの声は輪郭が曖昧で、ほとんど聞き取ることができなかった。鼻腔の奥が重く湿るのを感じたテンは、膝を曲げて腰を前にずらし、お湯の中に身を沈めた。両親のぼやけた声が消え、投げ出された腕が身体に沿ってゆるく伸びる。薄く目を開けて見えた光景には距離感がなく、見えるものすべては歪み、近くにあると同時に手の届かない距離にあった。息を止めた拍子に湯を吸い込み、咳き込みながら身体を起こしたテンは、目の前の曇った鏡を手のひらで拭いた。映った顔に表情はなかったが、唇は鮮やかな桃色に戻っていた。

自室で着替えたテンは、いつまで経っても話しにこない両親を訝しく思った。居間に通ずる扉の小さな窓から様子を伺うと、ふたりはテーブルに向かい合って座っており、間には三つ折りの跡のある紙が一枚置かれていた。そっと扉を開け、顔を覗かせたテンに父親が近寄った。ちゃんとあったまった? 無言で頷くのを見た父親は、テンが口にしかけた言葉を遮り、言い訳するような調子で言った。

大きい声出してて恐かったよね。お父さんもお母さんも吃驚してしまって。

母親を振り返る父親を黙ったまま見ていると、椅子に座ったままの母親がテンに向かって言った。ルコがいなくなっちゃったの。彼女は目を瞑ると自嘲気味に口元を緩め、テーブルに肘をついたほうの手で首の後ろをさすった。ふたりが間に挟んでいたのはルコからの置き手紙で、そこには両親との生活に辟易したこと、ふたりとの対話を諦めたこと、そして、もう家に戻るつもりのないことが記されていた。両親は、めっきり話さなくなったかと思えば、次には責任の所在をふたりに押しつけて出て行ってしまったルコへの感情の清算ができず、困惑しているのだった。テンは話し合いを続ける両親の隣で、母親が用意した夕飯をひとりで食べた。連絡手段がすべて断ち切られてしまったことに、ふたりは特に頭を抱えていた。角張ったり丸まったりする筆跡をぼんやりとたどりながら、テンは顔を伏せて食事をとるルコの姿を思い浮かべた。お兄ちゃんは今、どこにいるんだろう。

いくら耳をそばだてていても、テンとリンが万引きしたことに両親が言及する気配はなく、寝支度をしたテンが部屋に戻るときも、ふたりは疲れた顔で手を振るだけだった。自室の扉を閉め、テンは細い息を吐いた。頭の後ろで鈍い頭痛がしていた。それは頭痛薬を飲んでも一向に治らず、テンはベッドの中で寝返りを打ちながら、目覚まし時計のデジタル表示が一分毎に切り替わるのを眺め続けた。そのうち時間は前後との連続性を失い、テンは気づけば、他には誰ひとりとしていない透徹とした孤独の中にいた。そこに時間はなく、あるのは瞬間だけだった。小さく縮めた身体がそのまま消えていくように思われ、ベッドから這い出したテンは、机の上のケータイを手に取った。両親と同様、テンの連絡先からもルコの名前は消えていたが、電話番号でテキストをやり取りするアプリにだけは名前が残っていた。電話のアイコンを押すと、聞き慣れないコール音が鳴る。時計は三時二十七分を表示していた。

テン?

呻くように訊ねる声が聞こえ、お兄ちゃん、と絞った声で返すと、ルコは長いため息を吐いた。そして、ごめんね、と言った。しかしそれが何を指している言葉なのか、思いを巡らすだけの余裕がテンにはなかった。万引きしちゃった。ん? 万引きしちゃったの。万引き? そう万引き、どうしたらいいんだろう。え、ちょっと待って

万引きって、何?

ものを盗んだってこと。何でそんなことしたの? わかんない、とテンが返すと、ルコは口をつぐんだ。途方に暮れているのが電話越しにも伝わってくるような、長い沈黙だった。盗ったのは返せるもの? 返せないと思う。盗るところを誰かに見られたりは? してないはず。盗ったことを他の誰かに話した? 話してない。再び沈黙したルコの次の言葉を、テンは瞬きもせずに待った。夜更けにあっては、目を開いていようが閉じていようが、見えるものはほとんど変わらなかった。屈み込む身体のまわりに影が集まる。濃度を増していく沈黙に押しつぶされそうになったとき、時折唸るような声を出していたルコがテンの名前を呼んだ。盗んだことは、誰にも言わないほうがいいと思う。期待していたよりもずっと頼りなかったルコの回答に、テンは心の奥が陥没するのを感じた。でもそれは、万引きなんかなかったことにしよう、と言っているわけじゃない。

テンがやらなければいけないのは、テンがそれを盗んだことで悲しくなったり、巡り巡って辛い思いをしたりする人の痛みを、時間をかけて想像することだ。人を正しさで計ることに疑いを持たない人は多いから、もし誰かにこのことを話したら、彼らはきっとテンを裁くことに向かう。テンもきっとそれを引き受けようとするだろうけど、彼らがそこでやっているのは、ある意味では、想像しないことの正当化なんだ。それは巻き込んだ人たちの目から、事象のまわりで実際に生きている人の存在をかすめ取ってしまう。テンはそこに巻き込まれちゃいけない。だから、想像するんだ。

足の痺れを堪えながら、テンは電波の切り口でごわついたルコの声を聞いた。返事をせずに耳を澄ませていると、ルコの落ち着いた呼吸がかすかに聞こえてくる。今どこにいるの? 知り合いの家に泊めてもらってる、とルコは答えた。本当にもう戻ってこないの? あの人たちがいない時間に戻ると思う、そのときに会えるよ。

電話を切ったテンが窓辺を振り返ると、そこには相変わらず、街の消えない灯りが薄ぼんやりと滲んでいて、時計のデジタル表示も同じような模様のまま点滅していた。足の痺れをほぐした後、テンは音を立てないよう部屋の扉を開け、踏み出すたびにからかうように軋む廊下を渡り、ルコの部屋に入った。カーテンが開いたままのルコの部屋は、テンの部屋よりも幾分明るく、息がしやすいように思われた。テンはルコのベッドに潜り込み、ひんやりとした掛け布団を首元まで引き上げ、部屋の其処彼処に視線を巡らせた。萌木色の布で仕切られたクローゼットの手前に、ケースに入った野球のバットが立て掛けられている。それはルコが中学生のとき使っていたものだった。野球なんか大嫌いだった、と卒業してから吐き捨てたルコの表情が脳裏に浮かび、テンはきつく目を閉じた。

両親が家を出て行く音を聞いてから、テンはベッドの上に身を起こした。頭痛は消えていなかった。部屋の掛け時計を見ると、六時三十三分を指している。床に散らばったルコの洗濯物は帯状の朝日に浸っていて、振り返ると、窓の外は新たに産み落とされたような晴天だった。重い目を擦りながら部屋を出たテンは、顔を洗い、戸棚に入っていた惣菜パンを食べた。ケータイにはルコと通話した記録がアイコンになって残っており、電話を切った直後には

兄弟や家族でなかったとしても、ぼくはいつだってテンの味方だから 

とテキストが送られてきていた。テンは何度か文面を打ち直した後、ありがとう、とだけ返し、ケータイの電源を切った。結局のところ、ルコはテンのそばにはいなかった。そして、どこにいるのかも分からない相手に何を言えばいいのか、どんな言葉なら使ってもいいのか、テンにはまるで見当がつかなかった。電気ケトルに残っていた白湯でパンを飲み下すと、それを押し戻すように熱い吐き気が喉元まで迫り上がり、テンは台所のシンクに顔を突っ込んだ。くり返し嘔吐する間に、目からは涙が流れ、手と足は氷のように冷たくなった。口をゆすぎ、吐瀉物を水道水で流しながら、テンはぼんやりとリンのことを考えた。風邪ひいたりしてないかな。身支度を済ませ、家の鍵とケータイだけを持って家を出ると、テンは朝の日陰で乾き切っていない路面を走った。涙は溢れて止まらなかったが、朝露をつけた碧い草花が道のあちらこちらで輝くのを、テンは美しいと思った。

泥濘んだ土に時折足をとられながら、テンは木々の間を一歩ずつ進んだ。丘の麓の林に入り口らしきものはなく、林の中も同様、舗装された道や簡易的な階段など、人の手が加えられた形跡はどこにも見当たらなかった。首を後ろに倒して上を見ると、木々の伸ばした枝葉が頭上を隙間なく埋めている。どこまでも続くように思われる広大な木陰は、じっとりと湿って、身震いするほど暗く冷えていた。泥塗れの足を前に運びながら、バランスを保とうと細い幹に手をつくと、葉に残った雨粒が頭にぼたぼたと垂れ、テンは、額を伝って目を濡らした水滴を袖で拭った。林の中を風が抜けていき、思い出したように頭のまわりがきつく痛む。休憩がてらケータイを起動させると、すでに始業時間は過ぎていた。電波は届いていなかった。再び歩き始めたテンは、ささくれ立った木々の幹や、骨張った指のような根に手を伸ばしながら、何ひとつ指標のない中を無心になって進んだ。









疲れて浮いたような感じのする足腰を引っぱりながら、深まるばかりだった林を抜けると、白い家は目と鼻の先にあった。テンの身体はあちこちが泥で汚れ、顔も寒さと頭痛ですっかり青ざめていた。辺りを覆う芝は一様に柔らかく伸びていて、家に向かって歩を進めていくと、テンの足首は露でうっすらと湿った。陽の眩しさに目を細めながら、東向きの正面玄関にまわる。扉の前に立ち、口に残るわずかな唾液をぐっと飲み込むと、粘ついた血の匂いが鼻を抜けていった。テンは金縁の呼び鈴を押した。応答はなかった。再び呼び鈴を鳴らし、ドアノブにそっと手をかけてテンは怯んだ。扉には鍵がついていなかった。蝶番だけで木枠に取りつけられたそれは、実質的には扉のていをした木の板とでもいうべきものだった。抵抗なく手前に開いた扉の向こうは板張りの廊下で、突き当たりのキッチンと、二階へと続く手すりのついた階段が見える。テンは家の中に入り、後ろ手に扉を閉めた。埃っぽい空気は厚地の布のように重たく、すみません、と捻り出した言葉は、テンの口を離れた途端ぼとりと落ちてしまった。足元には、他の誰かが同じように落としていった言葉が、片づけられないまま雑然と転がっていた。

テンは二階に上がった。廊下奥の壁のくぼみに翡翠色の花瓶が置かれていたが、中には枯れた茎すら入っていなかった。テンは奥の右手の部屋の前に立った。家の間取りからして、それは橋から見た窓のある部屋だった。息を止めたままドアノブを捻り、扉を押し開ける。束の間、窓辺に見たように思った男の後ろ姿はまばたきを何度かすると消え、後には、カーテンを透過して濁った陽光が、その影を埋めるようによそよそしく揺蕩っていた。部屋の中にはベッドと箪笥があったが、どちらにも使われている跡はなく、白いシーツの端々は茶色く変色していた。錆びて回りづらくなった鍵を開け、窓を開け放つと、肺に詰まるようだった空気が風に絡めとられていく。眼下の街の音は手が届きそうなほど近く、テンは、終わりのないように思えた長い道のりも、街から離れるにはあまりにも短かったことを悟った。

ふいに物音がして、テンは背後を振り返った。箪笥の上に立ててあった写真が、部屋に吹き込んだ風で倒れたようだった。テンは背伸びして写真立てを取り、手元でそれを眺めた。そこにはひとりの女の子が映っていた。この家の玄関前と思しき場所で、彼女は肘掛け椅子に浅く座り、両手を腿の上に重ねて、カメラに向かって微笑みかけている。それは幸せそうには見えるものの、どことなく不自然な、肌の不在を思わせる笑顔だった。どこか見覚えのあるその顔を見つめているうち、テンは彼女の面影が、自分の母親に認められることに思い当たった。フレームから写真を抜いて裏返してみると、くすんだ白の隅には、走り書きで

グリーン・ドルフィンの丘にて

と記されている。テンは写真の中の彼女に顔を寄せた。よく見てみると、彼女の目はカメラのレンズに向けられているのではなかった。視線が捉えているのは、カメラのすぐ後ろ、レンズを覗いている限りは見ることのできない誰かだった。この子は、誰のために笑いかけているんだろう? 写真をフレームに入れ直し、箪笥の上に戻してから、テンはうねるような街並みを窓辺から見渡した。雑草のような家屋の並びが遠くまで続いている。窓枠から身を乗り出してみると、丘の下の一戸建てのベランダに、色の褪せたタオルが何枚か干してあるのが見えた。

三人だけの夕食は、テンが無断で学校を休んだことを話している間に終わった。どうして今日学校休んだこと黙ってたの? 忘れてた、とテンが答えると、両親は互いに目を合わせた。テンはその仕草が苦手だった。その後、彼らはテンにいくつかの質問をしたが、それらは詰まるところ、問いかける彼ら自身を安心させるためのものだった。寝支度を早々に済ませたテンは、自室の扉の隙間から居間の明かりが消えるのを確かめると、ベッドを抜け出してルコの部屋に入った。散らばっていた洗濯物は母親が片づけたらしくなくなっていたが、それ以外はルコが家を出た日のままだった。床に積み置かれた本と、本棚に詰め込まれたCDの列。指先でふれるように左から右へと視線を滑らせながら、テンは、棚からアルバムを抜きとるルコの腕を思い出した。

テンは、たぶんこれとか好きなんじゃないかな。

ケースからバットを抜き取ると、ファスナーに打面が擦れてかすかな金属音が鳴った。ミズノのロゴが細かい傷で掠れていた。グリップは新しく巻き直したばかりのように張りがあり、テンの手のひらに馴染んで握りやすかった。テンは部屋の扉から顔を出し、じっと耳を澄ませた。洗濯機の回る音に混じって、父親のいびきが聞こえてくる。テンは逆さに持ったバットを胸元に寄せると、玄関に向かい、身を屈めてスニーカーに足を通した。腿に力が込もると、身体が内側から熱を帯び、生理現象と感情とが混濁として、テンはU字ロックが掛かっていることに気がつかなかった。ドン、と大きな音が家の中に響き、母親がすぐに反応するのが聞こえた。テンは急いで扉を閉め、ロックを外してから外に駆け出した。真っ暗な夜だった。

父親の白い車は、闇の中でもはっきりと見分けることができた。テンは傷ひとつない車のボンネットに飛び乗り、バットを頭上に構えた。両親の追ってくる気配はまだなかった。駐車場は空の車ばかりでがらんとしていて、テンに見えるのも、空き地を隔てた隣の通りの十字路で、間もなく赤から青に変わろうとしている信号くらいだった。星はほとんど見えなかった。交差点が赤一色に染まるのが見え、バットを思い切り振り下ろすと、フロントガラスを打つ鈍い音に先行して手の甲に太い痺れが走った。辺りに飛び散ったガラスの破片が両隣の車に当たり、ぱらぱらと音を立てる。アラームが鳴り響く中、震える手に力を込め、テンは何度も何度もバットを振り下ろした。

歪んでいく車を目の当たりにした父親は、言葉にならない声を発した後、やめなさい、と叫ぶようにくり返した。駐車場には音を聞きつけた人々が集まり始めていたが、誰も彼の絶叫を聞いてはいなかった。父親はたまらずに走り出した。そして、テンの振りかぶったバットが顎に当たった瞬間、完全に逆上した。足首を掴まれて地面に引きずり下ろされる寸前、テンは、彼の目に映る自分が、純粋に殺意の対象になっているのを見た。ボンネットに身体を打ちつけアスファルトに転がり落ちたテンは手をつく隙も与えられないまま頰を殴られ、真上から火のような怒声を浴びた。父親にはもう何も聞こえておらず、指先まで行き渡った怒りが向かうまま、彼はテンの顔面を掴んで地面に強く押しつけた。彼はテンの頭を潰すつもりだった。そして、体重のかかった手と顔面を覆う激痛がテンの世界のすべてを占めようとしたとき、父親の身体がテンの上から消えた。朦朧とする意識の中、テンは自分の身体が誰かの腕に抱きかかえられるのを見た。まわりを人が動き回っていた。救急車の赤いランプが闇に差し、担架に乗せられても、テンを抱いていた腕はそばを離れようとしなかった。そのすぐ後ろには母親の姿があった。彼女は唯々呆然としていて、救急隊員のひとりに身体を支えられていた。

え、あの家見に行ったの?

リンは弾かれたように顔を上げ、テンのほうを振り向いた。学校終わり、ふたりで音楽を聞くために公園に向かっている途中だった。あの子に会えたの? テンは首を横に振って、誰も住んでないみたいだった、と答えた。リンは露骨に眉をひそめた。それって、おばけ屋敷ってことじゃん。たぶんね、と頷きながら、テンはかさぶたになりかけた頰の傷を絆創膏の上から掻いた。殴打による腫れはほとんど引いていたが、顔にはまだ痣と擦り傷がいくつも残っていた。角を曲がると、下級生と思しき子ども数人が、大声を上げながらふたりの脇を抜けていった。後を追って振り返ったリンが、あ、と声を上げる。てことは、先生たちは毎日おばけにメールを送ってたわけだ。テンが笑うと、リンも可笑しそうに笑った。あの人たち、馬鹿だなあ。

ふたりは公園に到着した。毛足の長い茶色の小型犬が、子どもの投げた青いボールを死に物狂いで追いかけていた。彼らの声は遠く、陽射しは穏やかだった。朽ちかけたベンチに腰掛けると、実は、とリンが口を開いた。テンが入院してる間に、万引き見つかっちゃったんだよね。隣で決まり悪そうに微笑するリンを、テンは黙って見つめた。続きの言葉を待ったが、リンはそれ以上何も言わなかった。そして、ふたりは音楽を聴いた。リンのために、テンは何枚かのアルバムをルコの部屋から持ち出してきていた。これ、好きじゃないかなと思ったんだ。蜜柑色の夕陽が雲に陰り、辺りが暗くなる。音に耳を傾けながら、テンは頰の傷を爪で掻いた。細く鋭い痛みが走ると、病室の空気に染みついていた消毒液の匂いが思い出された。それは痛みと安らぎを同時にほのめかす、不思議な匂いだった。

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