先生が初恋で良かった?
子供が通う学校のPTA行事で小学校の清掃に行った帰り
校門付近に、黒いジャージを着た若い教師が立っていた
彼は同僚の教師と楽しそうに話しに花を咲かせていた
「いつか見た風景だ」と心の中で呟いた
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今から30年も前の話である
私はどこにでもいるような小学5年生だった
田舎に住んでいたので小学校までは友達と
花や木の実を拾ったりして
ペチャクチャ話しながら登校していた
「おはよう!」
良く通る声が校門付近から響いてきた
「稲葉先生、おはようございます!」
一緒に歩いていた友達が明るく返事を返すその隣で
私は目立たないようにひっそりと足早にその場を離れた
そう、私は稲葉先生に恋をしていたのだった
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稲葉先生(仮名)は2年前に新任として
私の通う小学校に赴任してきた
当時25歳くらいで、
スポーツマンで長身の爽やかな好青年
容姿は俳優の東山紀之の若い頃に似ていて
一見、健康的であるにもかかわらず
たまに見せる憂いのある表情に
ギャップがあって魅力的な人だった
「稲葉先生ってさ、東京で芸能人になれそうだよね
なんでこんな田舎で教師なんてやってるんだろね」
今考えるとものすごく余計なお世話だけれど
当時、私は真剣に友達とそんな話をしていた記憶がある
私は稲葉先生と接触するまでは
恋愛にはまったく興味がなかった
「バレンタインデーにチョコを持って
好きな男子に告白したい!」と
意気込んでいるクラスメートを横目に
自由帳に絵を描いていた
「みんな、なんでそんなに楽しそうなんだろうね」
一番仲良しだった真理子ちゃん(仮名)に質問した
「さぁね、きっとすみれにもそのうちそういう人が現れるよ」
そしてその日は突然やってきた
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ある、昼休みの自由時間に私は真理子ちゃんと校庭で
縄跳びの練習をすることにした
「今日は二重とびの練習するよ!私うまくできないから」
真理子ちゃんと話しながら練習していると
少し離れた場所から楽しそうな声が響いてきた
6年生の男子たちがドッチボールをしているようだった
はしゃいでいる男子たちの中から声が聞こえる
「おーい!お前そこにいると当てるぞー!」
少し弾んだよく通る声、稲葉先生だった
「稲葉先生もドッチボールをやってるんだ、
なんだか楽しそうだよね」
真理子ちゃんがはしゃぐ男子たちを見ながら言った
私も何気なくそちらの方向を見つめる
稲葉先生がボールを本気で男子たちに投げつける
なんだか胸がドキドキした、
それが恋とはその時は気付かなかった
稲葉先生は6年生の担任だったので
残念ながら私とは何の接点もなく
遠くからいつも見つめることしかできなかった
休み時間に6年生の男子と遊ぶ先生
朝礼の時に子供たちの横にいて校長先生の話を聞いている先生
そして朝、校門で登校してきた子たちに挨拶をしている先生
なにも行動ができないまま、5年生も終わり修了式を迎えた
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春休みに入り、私はいつもよりゆっくりと起きて朝食を取っていた
「ねぇ、今日の朝刊見た?異動する先生が載ってるかもよ」
まだ少しぼーっとしている私に母が言った
取り合えず、新聞を手に取り自分の小学校の名前を探した
「〇〇小学校…、あった!」
でもそこに書いてあったのは残酷な現実だった
稲葉先生の遠い小学校への異動が決定していたのである
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春休みが終わり、私は6年生に進級した
でもそこに稲葉先生はもういなくて
私はやる気もなく自分の教室へと入っていった
クラス替えもなかったので見慣れた姿しかいない
「今日さ、始業式の後に離任式もあるんだってさ」
誰かがそんなことを話していた
(え?それって稲葉先生も来るってこと?)
突然、胸が高まった
せめて最後に稲葉先生の姿を見てお別れしよう
そう思って会場の体育館に向かった
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始業式も終了して離任式が始まった
稲葉先生はいつも着ていた黒いジャージではなく
スーツ姿で児童代表から渡された小さな花束を持って
体育館のステージ上に立っていた
(もう、これでお別れなんだね…)
稲葉先生が何を話したのかは覚えていないけれど
花束とスーツのコントラストは、今でもはっきりと覚えている
離任式も終わり、私は真理子ちゃんと教室に戻ろうとしていた
「あのさ、稲葉先生に挨拶してこない?」
突然の真理子ちゃんの提案に私は混乱した
稲葉先生のことはこれで終わりにするつもりだった
「いいよ!恥ずかしいしさ!」
「まぁ、いいからいいから!一緒に行くよ!」
抵抗する私のことなんて構わずに
真理子ちゃんは稲葉先生のいるはずである校庭に向かっていた
私は心の中で叫びながら真理子ちゃんに渋々付いて行った
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校庭に行くと、稲葉先生が子供たちに囲まれていた
「もういいよ、稲葉先生忙しそうだし」
「いや、ちょっと待つよ」
じたばたしている私を横目に真理子ちゃんは言った
しばらくすると稲葉先生が子供たちから解放された
「さぁ、行こう!」
覚悟を決めて私は真理子ちゃんに付いていった
「稲葉先生!異動しちゃうなんて寂しいです」
真理子ちゃんは稲葉先生にあれこれ話し掛けていた
稲葉先生も笑ってそれに答えている
真理子ちゃんが一通り話し終わった後こう言った
「すみれも何か言うことがあるんでしょ?」
胸がドキドキして頭が少し混乱していた
その時の私は、周囲から見たらかなり挙動不審に見えたに違いない
「…あの、稲葉先生…新しい小学校でも頑張って下さい…」
消え入りそうな声でなんとか言うことができた
これで自分の中ではもう心残りはなかった
「真理子ちゃんもう行こう、稲葉先生も忙しいだろうし」
私はこの場から早く離れたくて、取り繕って真理子ちゃんに言った
その時、稲葉先生が私に向かってこう言った
「春野さん、だっけ?」
きょとんとしていた私
「春野さん、今日は声を掛けてくれてありがとう
君はとても可愛いね、大人になったらいい女になって下さい」
一瞬、先生の言葉の意図が理解できなかった
そんな私の肩をやさしくトントンとたたくと
稲葉先生は自分を待っている他の子のところへと去って行った
隣で成り行きを見守っていた真理子ちゃんが叫ぶ
「ちょっとー!すみれちゃん!稲葉先生が可愛いだってー!」
私は魂が抜かれたみたいにその場に呆然と立ち尽くしていた
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教室に戻る道のりは散々だった
途中で偶然会った担任の先生に、体調不良と間違えられて
保健室に行くように言われてしまった
その時は真理子ちゃんがうまく取り繕ってくれたので
保健室には行かずにすんだのだけれど
帰宅するまで、なんだか夢の中を歩いているみたいだった
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その後の稲葉先生の消息は分からない
今でもどこかで幸せに暮らしていれば良いな、と思う
あれから随分と長い時間が経ったけれど
いまだに稲葉先生の言葉の真意は良く分からない
多分、先生は私が自分に恋愛感情を抱いているのを
すぐに察知して遠回しに傷つけないように
お断りしてきたのかもね、と思う
そうでなければ、自分に惚れている子がいたので
少しからかってみただけなのかもしれない
いずれにしても、当時11歳だった私には
少し刺激が強すぎた初恋の思い出である
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