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午後8時のオーブンのなか、

 「クッキーを焼こう」
 ふと思い立ったのは、午後8時。
 トコトコと台所に向かい、手をきちんと洗う。洗いたてのふんわりとしたタオルで手を拭いて、小さく「よし」と呟く。

 薄力粉が120g欲しい。シンク下の棚をごそごそと漁る。これでもない、あれでもないと、しなくてはいけないのは、恋人が色んな小麦粉をコレクションしているからだ。恋人は、ラーメンやパスタを麺から作る。加水率が何%だの、ひとりで楽しそうに何時間もかけて作る。ラーメンのときは、鍋に色んな材料を放り込んでコトコトと煮込んだ、それはそれは美味しいスープも作ってしまう。恋人の何時間の努力を私はいつも30分かからずに平らげて幸せに浸らせてもらっている。……これは“もち姫”だ。これはクッキーにも使えるけれど、恋人がそれはそれは大切に使っているものだから…そっと元の場所に返してあげる。
 やっと見つけた薄力粉。さて、120gはかっていこう。
 秤の上にボールを置いてから、電源ボタンを押す。電子は楽だけど、個人的にアナログの、あのかたちがいいなぁと思う。特に思入れも何もないのだけれど。そんなことを思ってるうちに120gを少しばかりオーバーしてしまった。まあ、いいか。そう思ってそのまま次に進んでしまうから、失敗するのだ。そんなこともわかっているけれど、先に進む。
 薄力粉のなかに、バター50gとはちみつ30gを入れる。そして、今日友だちになったばかりの歌を知ったかぶって歌いながら、それはそれは呑気に捏ねていく。…こういうときって、贈る相手を想ったほうがいいのか。そう思いながらも、知ったかぶりを続ける。
 午後8時35分。要領が悪いせいでとても時間がかかっている。時間がかかったほうが相手を想う時間が増えていいのか、と想ってなかったくせに急にいい人ぶってみる。やっと、型抜きを始める。こないだ買ったばかりの可愛らしいネコの型を使う。あと少しで恋人が帰ってきてしまうので、Allegroアレグロいや、Prestoプレストで。オーブンの余熱も忘れずに。
 きれいに揃った焼かれる前のクッキーたちを見て「いいじゃん」とこぼす。竹串を使ってネコに目を描いていく。何匹かグリグリとしすぎてしまったけれど、大丈夫、“かわいい”のままだ。
 レシピを確認し、170度のオーブンで15分〜20分焼くことを知る。恋人の帰宅と完成と、どっこいどっこいだな、と思いながら、クッキーたちをオーブンのなかへ。
 焼けていく様子を眺めるのが好きで。じーっと見つめてみる。別に何にもないけど、ちゃんと頑張りが認められていく感じがして好き。グラタンやラザニアのときも、変わらずにじーっと見つめては、この時間を楽しんでしまう。…ピーっという音がして、乾燥機が終わったことに気づく。本当は見ていたいけど、洗濯物を片付けてしまいたくて乾燥機の元へ。

 少しして、オーブンの元へ戻ってきたら…「え!!」ひとりの部屋に響き渡る、私の声。なんとそこには、黒と茶色の模様になってしまったネコたちが…。真っ黒な子もいる…。できてしまったものは仕方ないと思いたいのに難しくて、なんだか悲しくなってきた。ずっと見ていればこうは…。
 しょんぼり、お皿の上にネコたちを並べていく。
 「なにこれ、できないにもほどがある…」


 「ただいま〜」 
 小さく、疲れたとこぼしながら恋人が靴を脱ぐ音がする。洗面所に寄って、きちんと手洗いうがいをして、それから居間にやってきて。
 「いい匂い。何か作ったの?」
 「…クッキー作ったんだけど、失敗して。笑わないでね」
 「それは厳しいと思うけど…」
 耳が真っ黒になっていたり、身体に茶色の模様ができちゃっているネコたちを見せる。
 「ふふっ」
 「笑わないでって言ったじゃん…」
 「かわいいって意味。食べてもいいの?」
 恋人は、何枚かクッキーの写真を撮って、またふふって笑って、真っ黒ネコさんを手に取る。
 「いただきます」
 失敗してごめんなさい…と凹む私に笑って恋人は言う。
 「味があっていいよ、美味しい」
 「えー、嘘だ」
 「美味しいけどなぁ」
 と、恋人は2個目に手を伸ばしている。また、ひとくち。そして、
 「とっても、美味しいよ。全部食べていい?」

 恋人はいつだってそうだ。いくら失敗しても、頑張れたことを認めて、そして褒めてくれる。もぐもぐとクッキーを食べる恋人を見て、オーブンを見つめていたときと同じ気持ちになった。ふにゃふにゃしていた「頑張れたかな?」が、こんがりいい色の自信に変わった。
 「えらいね、今日はクッキーが焼けたんだ。頑張れたんだね」
 先生が生徒を褒めるような口調で恋人は私を見つめる。心のなかで、先生だもん、そうなるよなぁってふふってなって口元が緩む。
 「どうせ失敗したって凹んでると思うけど、できたことがえらいし。それにすごく美味しいし…嬉しいし。ありがとうね」
 しょぼんってしてた心に“ありがとう”が沁みていく。どんな些細なことでも私がしたことに「ありがとう」って微笑んでくれる恋人は本当に素敵だと思う。ありがとうを素直に伝えられることは、簡単に見えるけど実はそう簡単にはいかない。相手の言動をしっかりと見つめることができていないとできないことなのだ。ちゃんと頑張りを見てくれる人がいる、そんな安心感を恋人から贈ってもらう日々が今日も重なっていく。

 恋人は最後の一個に手を伸ばし、いい音を立てて私の想いを平らげる。
 「美味しかったよ、ありがとうね」
 ぽかぽかした想いが胸いっぱいに広がる。きっとこれが、“愛おしい”って気持ちだ。
 「今度は俺が作っちゃおうかな〜何にしようかな〜」
 恋人は楽しそうにレシピを調べ始めている。

 午後8時のオーブンのなかは、愛しい日々がぎゅーっと詰まって、いっぱいだった。


あとがき
恋人とわたしの日々を書きました。真っ黒焦げのクッキーを美味しいって食べてくれるあなたは本当に素敵です。

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