社会的職責の重さとコミュニケーション

同僚が足の骨を折った。

それを知ったのは本人の口からではなく指導から聞かされた。

その同僚はただの同僚ではない。一昨年の運転士研修で出会い3ヶ月同じ飯を食べ、そして同じ配属先で数ヶ月の見習いを経て同じ日に運転士になった3人の仲間の1人のはずだった。

その同僚は私ともう1人の同期よりも1つだけ歳も入社も下で中々職場に馴染むこともできていなかった。

それは社会経験の差から出るものだとばかり思っていた。

しかしその予測は違ったようだ。

我々の仕事は鉄道の運転士。
運転士という仕事はあの大きな車体を1人で動かしている華やかな職に一般人の多くからは思われている。実際子どもがなりたい職業ランキングでも常に上位に食い込む職業だ。

しかし実際は淡々と眠気に負けないように毎日同じ仕事をこなし、手や制服は土埃で汚れ、睡眠時間はろくに取れない過酷な仕事であることは運転士になった人は痛感していると思う。

そして鉄道員として忘れてはいけないことがある。
それは運転士は別に偉くはないということだ。

鉄道を走らせるためには多くの人間を必要とする。

線路保守、電気関係、車両保守、各種指令員、営業、そして乗務員など人数にしてみれば数えきれない人が携わり、各々の仕事をこなす事で1つの列車を動かしている。

その中で我々運転士の職場にフォーカスしてみても1人の運転士が毎日全部の列車を運転しているわけではない。私が所属している小さな田舎の運転士職場でも毎日30人以上の運転士が出勤し、それぞれ担当の列車を運転している。

運転士はその歯車の1つでしかない。
だから偉くも何ともないのだ。

しかし我々は鉄道を走らせるという規模の大きなプロジェクトを各々自分ができる仕事をこなして日常を作り上げている。どの部署もどの人間も欠けてはいけない。そんな職責が大きいことをやっている。「お前の代わりはどれだけでもいる」わけではないのだ。

ただそんなことは鉄道会社に入社すれば新入社員研修では耳にタコができるほど聞かされ、現場に配属されてからも携わっている人間の数を見れば感じることは出来るはずだ。ましてや現代の大インターネット時代、就職する前に鉄道会社の企業研究をしていればすぐにでもその事が答えとして書いてある。
ただ何十年も同じ職をしているとその事を忘れ独りよがりな仕事をする人間もたまにはいる。でもそんな奴に碌な先輩はいない。


今回彼は骨を折ったが、勿論骨を折りたくて、仕事を休みくて転けたのではない。それは誰もがそう思っている。当たり前だ。
しかし彼は普段からご飯に行くような我々にすら、その話をしなかった。ましてや私が「大丈夫なの?」と聞いた時ですら「足のことですか?」と聞き返してきた。
はっきり言って同回生とは思えないような距離を感じた。我々はいつからそんな間柄になってしまったのか。少なくとも私が怪我をしたり病気になり長期で乗務ができなくなることがあれば近い人間には当然迷惑をかけることについて言及する連絡を取るだろう。それは怪我をしたり病気になることは仕方ないことだが、「仕方がない」と決定するのは怪我をした私ではなく他人だからだ。

1人が怪我をした。であればその人間が埋めるはずだった穴は他人が埋める。
本当はその休日彼女とデートだったかもしれない。不定休で中々子供と遊んでいなかったが、その日キャッチボールの約束をしていたかもしれない。末期癌の母の入院先で面倒を見たかったかもしれない。穴を作った側が単純に仕事だから他の運転士が穴を埋めるのは当然だと考えてはいけないのだ。しかし彼の言葉の節々からそれが感じられた。勿論彼はそう思ってはいないかもしれないが、言葉を受け取るのは他人である。私の他にもそう感じる人がいたのであれば、それが答えになってしまう。

昨今休みにくい職場が注視され、働き方改革をし休みたい時に休もうといった方向性に社会が動き、それぞれ企業も頑張っているが、それは代わりがいくらでもいる職場であれば好きにすればいい。しかし我々のように特殊な技術を持ち合わせなければならず、ただでさえ人数の規模が小さい職場ではお互いが協力して休みを取ることが必要不可欠だ。そしてそこには日頃のコミュニケーションや思いやりが無ければ成立しないのだ。

だからこそ本当に困った時に誰かが助けてくれるようなコミュニケーションを取る必要がある。しかし彼とは同じ職場になってから1年半も経つが、普段の行動からは中々それが見られない。周りからは不思議ちゃんということで片付けられているものの、それは知らない奴と同義なのだ。足を折って乗務ができない今、普段コミュニケーションをとっている我々にだけにでも早めに言うべきだったのではないだろうか。勿論私が乗務ができない状態になったとしても普段喋らない様な先輩は次職場に行った時ぐらいは一言言うのが当然だとは思うが、同期や年が近い先輩にはすぐにでもLINE等で報告するだろう。

それくらい人間関係というのは面倒なものなのだ。しかし他者との関わりは孤独よりも数億倍も楽しい。それは大人になる前に学び終えておかなければならない。
27歳の私が言及するのも恥ずかしいが、こんなことは義務教育期間の間で人を傷つけ、人に傷つけられ、クラスで1つの目標を達成するために喧嘩をして協力したりして培っていくものであり、社会人5年目に言われることでもないのだ。


私は彼に対してこの1年半同じ配属先になってから、彼のその魔物の片鱗を見てきたからこそ、コミュニケーションを取る中で気づかせてあげたかったが、やはり無理だった様だ。私のやり方が間違っていたのかもしれない。
上から目線で何様かと言われるかもしれないが、それでも彼には気づいて欲しかったのだ。一職場の仲間として、1人の後輩として、そして1人の友達として

古くさい考えだとか、そういったことを抜かす人もいるかもしれないが、社会人の我々は結果論で全てを話す。穴ができたのは不慮の事故だからかわいそうではなく、足を折ったあいつのせいで休みが削られた。そう思われるのが現実だ。そこで影響が出る前に一言添えることの重要性が理解できず、さも俺の代わりに乗るのは当然だ、怪我をしたのは仕方ないとふんぞり返っているように振る舞いを見せているのはどうしようも無い。関わりたいと思う人間が減るだけだ。



同じ現場に配属され1年半共に苦労し楽しく過ごしてきたつもりだったが、私の独りよがりだったようだ。彼の望む通りコミュニケーションをやめ、そっとしておくのがいいのかもしれない。
残念ながら彼とは同じテーブルで同じ飯をつつくことはもうないだろう

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